サイコパス映画でした。今や、ヤクザ映画は成り立たず?
この映画を見るために一作目の「孤狼の血」を見て、さらに柚月裕子さんの原作『孤狼の血』まで読んでいます(笑)。
んー、これはヤクザ映画ではなくサイコパス映画ですね。
原作には続編があり三部作となっているのですが、映画はそれとは関係がないようでオリジナルストーリーとあります。ただひとつだけ、原作の『孤狼の血』のラストでは、日岡が田舎の駐在所に飛ばされて終わるのですが、それがこの映画のラストで使われていました。
サイコパス映画
前作を、暴力度100%、下品度100%、不潔度100%、女性蔑視度100%としますと、この映画は、暴力度200%、下品度50%、不潔度50%、女性蔑視度100%というところでしょうか。
暴力度200%
この映画には暴力しかありません。大した物語もありません。あるにしても次なる暴力を生み出すための物語に過ぎません。
なんにしてもこの映画は上林(鈴木亮平)です。
上林の暴力は常軌を逸しています。一応、子どもの頃の生活環境、親からの虐待がその理由づけになってはいますが、映画によくあるパターンで短絡的に結び付けられているだけです。人の心の中など誰にもわかりませんので、そういうことも有り得なくはないのでしょうが、上林の暴力に親の虐待という理由づけは無理でしょう。
ですのでサイコパスということになりますが、もちろん心理学上の言葉として言っているのではなく映画で言うところのサイコパスという意味です。
殴る蹴るは当たり前、人を殺すことに罪悪感など感じることもなく、息を吸うが如くです。刑務所での扱いに恨みを持ち、何の関係もない刑務官の妹をいきなり襲ってレイプし目玉をくり抜いて殺してしまいます(ピアノ教師殺人事件)。
ヤクザ映画ではない
さらに、組の上層部、つまり親分に対しても容赦ありません。脅すこともなくいきなり射殺しますし、犬の檻に閉じ込め鎖で絞殺もします。
もはやヤクザ映画とは言えません。ヤクザの世界が「義理と人情」であるかどうかなど知るよしもありませんが、少なくともヒエラルキーで成り立つ世界ですので、この映画のように暴力だけでは自分がトップになっても組織が成り立ちません。
その破滅を描くのであれば、また面白い映画になったかもしれませんが、この映画はヤクザの抗争も描いていませんし、そもそも2時間20分間、上林が暴れまわっているだけの映画です。
ネタバレあらすじとちょいツッコミ
上林の日岡への恨み
基本的な軸となっているのは、その上林(鈴木亮平)の日岡(松坂桃李)への恨みです。
前作のラストで、日岡が尾谷組の一ノ瀬(江口洋介)を使って五十子会の組長を殺させていますが、五十子会の組員であった上林は服役中であったためにその経緯を知りません。上林は自分が親分と言えるのは五十子(石橋蓮司)だけだったと言い、その殺害に関わった刑事を探し出し殺すことを目的としているわけです。
ただ、その刑事が日岡であることは隠されているわけではありませんし、誰もが知っていることですので大したドラマにはなりません。一応、上林はそれを調べるためにチンタ(村上虹郎)を使うというドラマが織り込まれてはいますが、あとが続きません。ですので、この件は、上林が、なにー! あの日岡が親分をやったのか! などといった(笑)メリハリのあるはっきりしたシーンもありません。二人の争いのラストシーンはなぜだかよくわからないうちに二人だけの対決シーンになっていました。
ヤクザの抗争はどこへ
上の人物相関図をみますと尾谷組にあまり存在感がありません。
こういうことです。
前作のラストでは、五十子会は親分を失い、一ノ瀬は刑務所に入るということになり、その後も抗争が続くかというところを日岡が2つの組織の間を取り持ち、五十子会およびその上部組織広島仁正会と尾谷組が手打ちをし、その後3年間、呉原市は尾谷組のシマとして安定しているということであり、またこの続編は暴対法が施行された翌年、平成4年の話ですのでヤクザの抗争を映画の軸にはできなかったということだと思います。
とはいっても、なにか物語の発端が必要だったのでしょう、いきなり五十子会の構成員が尾谷組のシマのクラブを襲って拳銃をぶっ放すというところから映画は始まっています。
ただこれも、日岡のエス(情報提供者)であるチンタ(村上虹郎)を登場させるためのものであって、尾谷組と五十子会の抗争へつながっていくわけではありません。
この冒頭の殴り込み(でいいのか?)は、日岡が五十子会に送り込んでいるチンタの情報提供であっけなく皆逮捕されて終わります。日岡がチンタに刺されはしますがそれも、多少手違いはあっても、チンタの安全のために仕組まれたものです。
在日韓国人チンタ
チンタには呉原でバーを経営する姉、近田真緒(西野七瀬)がいます。日岡とは恋愛関係にあるようですがラブシーンなどのはっきりしたシーンはありません。
近田は日岡に、弟を巻き込むのはやめて欲しいと常々言っているようですが、日岡はこれが最後だと言いつつズルズルとチンタを利用し続けています。
このチンタの描き方が雑ですね。映画的にという話ですが、ヤクザの組織に情報提供者を送り込んだとしたら、もう一度、もう一度なんてことは考えられず、そのまま続けるか行方をくらますかどちらかしかないでしょう。あんな大ぴらに会ったりしていたらすぐにバレます。
実際、その後五十子会を乗っ取り上林組を立ち上げた上林に見抜かれ、逆に日岡を探れと二重スパイにされ、それでもなんとか踏ん張ったものの、結局、上林に偽情報を掴まされ、これまた目玉をくり抜かれて殺されてしまいます。
この映画はチンタを在日韓国人という設定にしています。チンタはもうこの日本じゃ生きていけないと韓国へ渡るために日岡に大韓民国のパスポートを取得してもらっています。
チンタや姉の近田を在日としていることに、脚本家、あるいは監督がどういう意図をもっているかはわかりませんが、この映画の描き方にはなんだか安易さしか感じられずいい印象はありません。これまたどういう意図かわかりませんが、近田の家のシーンをセピアにしていませんでしたかね。
それにもうひとつ、言葉はなかったと思いますが、上林がチンタのパスポートを見つめるシーンなどは上林自身も在日だと思わせるような演出でした。
差別がヤクザへの道になっているということを言いたいのであれば中途半端に匂わせるだけという描き方はよくありません。きっちり正面から向き合うべき問題です。
警察もヤクザと同じってか
前作に引き続き、警察内部の腐敗というプロットが映画のもうひとつの軸になっています。
前作で大上(役所広司)が好き勝手にアウトロー刑事でいられたのは警察内部の腐敗を握っていたからで、日岡はそれらを記したノートを引き継いでいます。この対立構造は監察官嵯峨(滝藤賢一)対日岡ということになります。
冒頭のピアノ教師殺人事件は広島管内で起きた事件ですが、日岡が呉原署から呼ばれ担当刑事となります。なぜ? とは思いますが、嵯峨が仕組んだということなんでしょう。日岡の相棒に定年間近という公安出身の瀬島(中村梅雀)がつきます。
ピアノ教師殺人事件の捜査は一向に進みません。と言いますか、映画自体がそれをすっかり忘れているかのように上林の暴力とチンタのあれこれしか描いていません。
映画が終盤に入るかというあたりでチンタが上林に殺されます。当然、日岡はその死のショックだけではなく、姉の近田から責めまくられて落ち込みます。その気持ちもあってか、瀬島に誘われるがままに一ノ瀬による五十子殺害を仕組んだのが自分であることを喋ってしまいます。
え? これ、秘密だったの? とは思いますが、とにかく、瀬島は日岡の弱みを掴むために嵯峨が差し向けたスパイだったのです。
後日、日岡は自分のことを調べている新聞記者高坂(中村獅童)から、ピアノ教師殺人事件には公安が絡んでいるとの情報を得て、瀬島の自宅を訪ねますとそこはもぬけの殻、はめられたことに気づきます。
つまり、日岡は嵯峨に弱みを握られ、嵯峨の弱みを握っている日岡とおあいこ、両すくみ状態になったということ(のよう)です。なんだか深みのない話ですね。さらに、日岡は、ピアノ教師殺害が上林の犯行であるとの物的証拠を掴んでいながらもみ消していたことを知り、それを新聞記者に売ってしまいます。
えー? 瀬島に自分の秘密をあっさり喋ってしまうこともそうですが、こんな直情的な行動を取るような人物がヤクザ同士の抗争を止めるような力を発揮することなどできないですよね。
日岡対上林
そして、結末です。
日岡は手錠をはめられて警察署にいます。
そんな状況は考えられませんが、内部情報を新聞に漏らしたからだそうです。
とそこに、上林組が尾谷組に殴り込みをかけるという情報が入ります。日岡は手錠をはめられたまま脱出し、パトカーを奪って現場に向かいます。そして、なぜかわかりませんが、いつの間にやら日岡対上林の一対一の対決となり、カーチェイスあり、殴り合いありの対決があり、どちらもメロメロになったところに嵯峨たち刑事が駆けつけ、上林が取り押さえられ、その時、日岡は嵯峨の拳銃を奪い上林を撃ち殺します。日岡はその拳銃を嵯峨に握らせます。
後日、上林殺害の経緯はふせられたまま事件は解決となります。
後日譚
瀬島がふらふらと路地から大通りに出ていきます。そこにトラックが走り込み急ブレーキ、建物の影からチンタの姉、近田が急ぎ足で路地に歩いてきます。
なにも明かされませんが、日岡と近田が組んで瀬島への復讐を果たしたのでしょう。瀬島がチンタのことを上林に漏らしていたということなんでしょう。
後日、日岡は田舎の派出所勤務に飛ばされています。村ではニホンオオカミが出たとの情報があり、山狩が始まります。日岡も山に入り、何らかの神事の後のような紙垂が垂らされた岩陰にオオカミを見ます。幻かもしれません。大上(役所広司)の遺品であるジッポーのライターにはオオカミの装飾がされています。
物語が薄っぺらい
いくら無茶苦茶な映画だったとしても一作目にはある程度の軸となる物語があります。しっかりした原作があったからでしょう。
それに比べこの二作目は無理矢理感が強いです。
その分、鈴木亮平さんの上林に頼るしかなくなったんだろうと思います。たしかに上林の怖さはこの映画の肝になっています。でもねえ、それじゃやっぱりサイコパス映画ですよね。
もう、実録系のヤクザ映画は無理です。実録系で裏社会を描くのであれば、半グレと言われる存在があるとするならそのあたりでしょうし、この映画のような暴力ものではない現実のヤクザを描いてみたらいいのにと思います。
それにしても単なる暴力だけの映画はナンセンスです。