チャイコフスキーの妻

HPやチラシのヴィジュアルが2020東京オリンピックの盗作騒ぎのロゴ(T)みたいなんだけど…

LETO レト」「インフル病みのペトロフ家」のキリル・セレブレンニコフ監督です。「チャイコフスキーの妻」であるアントニーナ・ミリューコヴァを描いた映画ですが、伝記映画というわけではなく、キリル・セレブレンニコフ監督の大胆な創作です。一昨年2022年のカンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品されています。

チャイコフスキーの妻 / 監督:キリル・セレブレンニコフ

世紀の悪妻説は権威主義的男目線の…

伝記もなにも、そもそもアントニーナについての客観的な資料はほとんどないようで、ウィキペディアによればアントニーナ本人の回顧録があるもののあまり知られたものではないらしく(少し調べましたが見つからない…)、世間一般に流布しているのは「世紀の悪妻」という、あくまでも男の側から見た侮蔑的な言葉です。

あれこれ世に残されている話は、そもそもアントニーナをよく思っていないチャイコフスキーの兄弟たちや周辺の男たちが語った話ですし、それがエピソードとして伝わっているだけだと思います。チャイコフスキーのウィキペディアを見てもアントニーナのことはほんの数行で無視された存在です。ウィキペディアですから仕方ないですけどね。

この映画は、そうした権威主義的な男目線のアントニーナ像に対して歴史上実際に生きた人物として描こうとしたキリル・セレブレンニコフ監督のアントニーナ像と理解すべきものだと思います。ただ、かなりエキセントリックな人物として描かれていますので、悪妻イメージをひっくり返そうとしたわけではなさそうですし、また、誰も知り得ない二人の間になにがあったのかを描こうとしているわけでもなさそうです。その意味ではなにをしようとしたのかあまりはっきりしない映画ではあります。

もちろん、結婚、すぐにやってくる不和、チャイコフスキー(サイド…)からの離婚の申し出、そして、チャイコフスキーの死といった事実は守られており、またウィキペディアあたりを読んだ際に目にしたエピソードのいくつかは盛り込まれています。ただ、ウィキペディアも英語版(日本語版は英語版プラス何か…)とロシア版では随分異なっていますので、なにが本当かなどということにこだわっても仕方ないということでしょう。

アントニーナの思いは愛なのか?…

1893年、チャイコフスキーの死のシーンから始まります。横たわるチャイコフスキーの周りは男ばかりです。

この描き方がこの映画の視点であることを初っ端からはっきり見せています。チャイコフスキーがゲイだったということもあるのでしょうが、それだけではなく、男たちによって作られ、守られている価値というものの存在を明確に示しています。

アントニーナが弁護士(後でわかる…)とともにやってきます。男たちに守られたチャイコフスキーには近づけず立ちすくんでいます。横たわっていた(死んでいた…)チャイコフスキーがやおら起き上がり、アントニーナを罵ります。

アントニーナが見る幻想ということですが、この後もこうした現実なのか幻想なのかわからないシーンが結構多くあります。「LETO レト」でも「インフル病みのペトロフ家」でもこういうところはとてもうまい監督です。

そしてアントニーナがチャイコフスキー(ピョートルだが、以下チャイコフスキー…)に出会うシーンになります。197?年と出ており、アントニーナがチャイコフスキーのパトロンと思しき女性に紹介してほしいと頼んで姪として紹介されていました。チャイコフスキーはまったく興味を示しません。

アントニーナを演じているアリョーナ・ミハイロワさんの印象がしっかりした大人の女性ですのではっきりはしませんが、恋する乙女のような描き方をしているんだと思います。チャイコフスキーをじっと見つめるカットや教会の前にひざまずき、雨が降ろうがひたすら神に祈る(添い遂げたいということ…)姿、そして手紙を送り、訪ねてきたチャイコフスキーにいきなり愛を告白したり(すごい台詞だった…)します。

ウィキペディアにもエピソードとして手紙を2通送ったとありましたが、チャイコフスキーはその2回めの訪問でアントニーナからの求婚を受け入れます。

そして、結婚式、6週間で終わった(らしい…)同居生活、その後、チャイコフスキーの死までの16年間、自身の死までの40年間、決して離婚を受け入れようとしなかったアントニーナが描かれていきます。

男の集団、女の孤立…

という映画なんですが、見終えてもキリル・セレブレンニコフ監督がアントニーナやチャイコフスキーをどういう人物だったと考えているかも、二人の間になにがあったと考えているのかもよくわからないまま終わっていました。

結局のところ、この映画から見えてくるのは、キリル・セレブレンニコフ監督は、チャイコフスキーを取り巻く集団をゲイ・コミュニティのように描いていることと、それに抗ってチャイコフスキーを自分のもとに引き寄せようと必死になる孤立無援のアントニーナの姿を見せようとしているようだということでした。

残念ながら、アントニーナがチャイコフスキーに抱いた感情はなんだったのか、なぜそれに固執したのかまでは迫っていないということです。その意図もないのだと思います。

キリル・セレブレンニコフ監督は、どちらかといいますと物語を語るタイプの監督ではなく、ヴィジュアルやオーディオを重要視する監督のようであり、この映画では帝政ロシア時代の雰囲気にこだわっていますし、音楽もよかったです。

音楽の Daniil Orlov(ダニイル・オルロフ?)さんはピアニスト、編曲家、作曲家で、キリル・セレブレンニコフ監督のオペラ演出などでは音楽からのアドバイザーをしている方のようです。

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この方でしょうか(未確認…)。かっこいいですね。

印象的ではあっても前後につながっていかないシーンも多いです。たとえばアントニーナが教会の前、それも階段の下に跪いて祈るシーンに絡んでくる女性はアントニーナの将来を暗示するように自分の夫を罵り自分の境遇を嘆きます。教会の前にたむろする浮浪者も時代背景の描写のひとつではありますが、ただそれだけで全体に絡んできません。

アントニーナの家族、特に母親がいつも怒りまくっているのも浮いています。チャイコフスキーの手紙にアントニーナの家族を蔑む文面があるらしく、それを取り入れたのでしょうか。

後半になりますと、アントニーナが精神的におかしくなっていくのですが、それもあまりうまく流れていません。妄想シーンとしてフルヌードの男たち数人との絡みがありますが、あれもゲイ・コミュニティを連想させます。ただ、思ったのは、単純にシーンだけの話としてですが、あれが男女逆であれば自分はどう見たのだろう、おそらく特に違和感なく見たんだろう(まあ、実際それはないけれど…)と考えますと、なかなか思い込みの価値観は抜けないものだなあと思ったわけです。

次作「Limonov: The Ballad」の日本公開はあるか?…

ということで、この映画自体はもうひとつでしたが、キリル・セレブレンニコフ監督は注目している監督の一人ではあります。次作が今年のカンヌ国際映画祭のコンペティションに出品されています

「Limonov: The Ballad」

エドワルド・リモノフという人物の伝記映画と紹介されており、そのウィキペディアを読みますと、かなりハチャメチャな人物でやっていることはどうかと思いますが、そうした行為や感情がどこからくるものなのか興味がありますので見てみたい映画です。日本で公開されるかどうかはわかりません。

そう言えば「インフル病みのペトロフ家」、理解できませんでしたのでDVD化されたら見なくっちゃと思っていたのにまだ見ていません。見なくっちゃ。