12日の殺人

謎解きでもなく、ドキドキ感を煽ることもなく、なのに面白い…

前作「悪なき殺人」では、2019年の東京国際映画祭で最優秀女優賞と観客賞を受賞していたドミニク・モル監督です。この「12日の殺人」では、昨年2023年のセザール賞で作品賞、監督賞、助演男優賞、有望若手男優賞、脚色賞、音響賞を受賞しています。期待できそうです。

12日の殺人 / 監督:ドミニク・モル

謎解きもドキドキ感もないのに面白い…

とても興味深く面白い映画でした。

21歳の女性の殺人事件を追う刑事たちの話なのに事件は最後まで解決しません。サスペンスっぽいつくりではあっても、犯人を追い詰めていくようなドキドキ感もありません。その女性はガソリンをかけられ火をつけられて殺されるという残虐で猟奇的な犯罪なのに、怖! と感じるシーンもありません。容疑者はたくさんいるのに一体誰が犯人なんだというミステリーっぽさもありません。

これでも面白く感じられるんですからすごい映画です(笑)。

なにを描いているのかといいますと刑事たちの日常です。はあ? って返ってきそうですが、そうとしか言いようがありませんし、それでも面白いのです。

なぜなら、そこにあるのが社会の縮図(の一面…)だからです。

犯罪ものですので当然犯人を追っていく過程が描かれるわけですが、我々がこの映画で見るのは、犯人が誰かの謎解きでもなく、また被害者が抱えていたかも知れない個別事情でもなく、事件の捜査をする刑事たちに堆積していく社会の歪みなのです。

バンクをぐるぐる回る男…

冒頭、ナレーションでフランスには多くの未解決事件があると入ります。この事件もそのひとつだということです。

男が自転車競技用のバンクで自転車を走らせています。競技用のスーツを来ていますが選手という感じではありません。男はひとりでバンクをぐるぐると回っているだけです。

フランス、グルノーブル、警察署の一室で定年を迎えた刑事の送別会が行われており、その後釜として主任刑事となったヨアン(バスティアン・ブイヨン)が紹介されています。自転車の男です。

自転車のシーンはその後も3、4度挿入されます。何となく異質な感じのするシーンでしたが、これがある種、映画のテーマ(的…)なものにつながっていたようです。

映画の中ほどで同僚に競技場の外では走らないのか?と言われます。ヨアンがなんと答えていたのか記憶にありませんので明快なものではなかったのでしょう。そしてラストシーンは、そのヨアンがアルプスの山岳道を必死に登っていくシーンで終わります。

同じところをぐるぐる回るしかない閉塞感ということでしょうか。直接的には堂々巡りともいえる捜査からくる刑事たちの現状でもあり、また捜査の過程でみえてくる社会そのものの閉塞感、それはどこにも出口などありそうもない社会ということでもあります。

後先になりますが、刑事たちの送別会のシーンでは刑事たちが10人以上はいたと思いますが、皆男たちでした。

捜査線上の男たち…

その警察署での送別会と同じ日、2016年10月12日の夜、山間の町サン=ジャン=ド=モーリエンヌ(実際にあります…)で21歳の女性クララが友人宅で遊んだ帰り道、何者かにガソリンをかけられ、ライターで火をつけられて殺害されます。

持っていたスマートフォンからすぐに身元もわかり、友人ナニーから付き合っていた男もわかります。しかし、その男は付き合っていないし自分には恋人もいる、単なるセフレでクララのほうが積極的だったと怪しいところはありません。

クララの交友関係から何人かの男たちが捜査線上に上がってきます。ボルダリングジムで知り合ったという男は、関係を持っていたクララが殺害されているにも関わらず、クララの殺され方を聞いた途端突然笑いだして悪びれることもありません。また、自ら出頭してきた男はクララに振られた腹いせに燃やしてやるという歌詞のラップをネットに上げているので怖くなって出頭したと言っています。

そんな時、ヨアンのもとにライターが送られてきます。夜、殺害現場を再検証していますと物陰に男がいます。ライターを送ってきた男です。男は殺害現場近くの小屋に住んでおり、ライターは拾ったもので捜査に協力しようと送ったと言います。また、クララと関係があったとも言います。

ヨアンはナニーにクララの男たちのことを知っていたのか、なぜ言わなかったと咎めます。ナニーは、クララはあなた達の思っているような子ではない、クララが殺されたのは女だからと眼をうるませながら抗議します。

ナニーが言わんとしているのは、仮に殺されたのが男だとして、その男が多くの女性と関係を持っていたとしてもそれを理由に責められはしないし、殺されることはない(確率は低い…)ということかと思います。

殺害現場には追悼の花が置かれキャンドルがたかれています。その中から血のついたTシャツが発見されます。DNA鑑定から妻への暴力で公判中(間違っているかも…)のDV男が捜査線上に上がります。

この男もクララと関係があったわけですが、重要なのはこの男のことではなく、このマッチョな男に対するひとりの刑事の怒りです。

ヨアンの部下(年上…)であり、捜査の上のパートナーでもある刑事マルソー(ブーリ・ランネール)がいます。ある時、マルソーがヨアンに話があると言ってきます。問題を抱えているようです。マルソーは妻と離婚することになりそうだと言い、でも妻は妊娠していると言います。妻が子どもを欲しいと言い出し避妊をやめていたが一向に妊娠しない、そのうち妻が浮気し始め、自分は我慢してきたが、その男との間に子どもが出来たと言います。自分は妻を愛しているのに、その男とはわずか3ヶ月で妻は望みを叶えたと嘆いています。

そのマルソーがマッチョ男に我慢できなくなったのか、ひとりで出掛け、その男を脅し暴力をふるいます。このあたり、なかなか言葉での説明は難しいのですが、マッチョ男は妻(元妻?…)とは別の女性と暮らしており、その女性は男がクララと寝ていることも知っているにも関わらず、男を全面的に信じているのです。

マルソーは行き詰まっている捜査と自らが抱える問題で精神が飽和状態になってしまったということです。後に書きますが、このマルソーとヨアンとの会話シーンや他の同僚たちの言動が、実はこの映画の重要ポイントだということです。

出口のない社会と出口を探す男…

結局、捜査は暗礁に乗り上げ、マルソーは配置換え(だったと思う…)になり、事件は未解決のまま3年の月日が流れます。

ヨアンが予審判事に呼ばれ、再捜査を命じられます。

3年後の10月12日、ヨアンと新たにヨアンの部下となった女性刑事(重要な人物だと思うが名前がはっきりしない…)が殺害現場を張っています。

張り込み中の二人の会話も結構重要で、その女性刑事は、警察というのは男が起こした事件を男が調べるという奇妙なところだと言ったりします。ヨアンがその刑事に、首席で卒業したのになぜこんな過酷な現場を選んだのだと尋ねますと本部は性格に合わないと答えていました。かなり意図的に配置された女性刑事という重要な役回りなんですが、もう少しうまく生かすことも出来たのではないかと思います。

その張り込み中にクララの両親がその場にやってきて泣き崩れます。このシーンも意味合いがはっきりしませんが、こうしたシーンでヨアンに何らかの変化が起きているということだと思いますし、その積み重ねで、ラストシーンのアルプスの山岳道を登る自転車のシーンにつながっているような気がします。

再捜査は、その張り込みともうひとつ、クララの墓に隠しカメラが仕掛けてあります。その映像には上半身裸になり歌いながら墓の前で悶え苦しむようなしぐさをする男の映像が残されています。ヨアンたちは色めき立ち、男を確保し尋問します。しかし、男はクララのことを知り追悼していただけだと言います。さらにその男にはアリバイがあることがわかります。男は精神科病院に通っており、2016年の10月12日のその日は入院していたのです。

結局、クララ殺害事件は未解決のまま終わります。

で、ラスト、ヨアンがマルソーにバンクの外へ出ることにしたと手紙を書き、何%かの上り道20km(くらいだったか…)を体を左右に傾けながらペダルを漕いで上っていきます。

捜査する男たち…

という、基本は犯罪映画でありながら実に静かに進む映画です。

ベースになっている本があります。フランスのポーリン・ゲナ(Pauline Guéna)さんという作家が2015年から2016年にかけてベルサイユ警察に密着してかきあげた犯罪記録(小説かどうかわからないので…)です。そのうちの一事件、あるいは一部がベースになっているとのことです。

映画には、刑事たちが何十ページもある調書を書くのが自分たちの仕事だとぼやくシーンであったり、実際に深夜にもかかわらず全員でキーボードを打つシーンであったり、故障続きのコピー機に当たり散らしたりというシーンが入っています。

それが現実でもあり、また社会そのものでもあるということでしょう。

送別会のシーン、刑事は男たちばかりです。すでに私たちはそれがジェンダー的に歪んだ状態であることを知っています。つまり映画はそれを見せようとしているということです。

次々に上がってくる容疑者たちはみな口をそろえてクララが誰とでも寝る女だと言います。男たちがそうした女性を侮辱的に呼ぶ言葉はどの国にもあると思われます。当然刑事たちにもそうした価値観は染み付いています。かなり抑えて描かれていますが、ひとりの刑事がクララのことをそうした表現で呼び、行き詰まった捜査の鬱屈感をぶつけるシーンがあります。

重い空気の中、ヨアンがその刑事を咎めます。映画は刑事たち全員にそうした感情があることを示しています。

おそらくヨアン自身にも同じ感情は芽生えていると思われます。しかし、ヨアンはそうした感情の発露に抗い抑えようとしています。マルソーがヨアンに苛ついているのかと言うシーンがあります。映画はそれ以上説明しようとしませんが、映画全体から考えれば、単に捜査の行き詰まりだけではなく、自分自身のなにかと戦っているヨアンがみえてきます。仕事を終えた夜、ただひとりバンクをぐるぐる回り続ける行為もそうですし、生活環境もかなりストイックです。

ヨアンは夫婦生活が破綻して警察署に寝泊まりしているマルソーを自宅に寝泊まりさせます。ヨアンはマルソーにトイレで小便を巻き散らかすなと言います。気をつけているというマルソーにヨアンは署内を見てみろと言います。そして、何なら座ってしろと言います。

こんな会話を入れた映画を初めて見ました。それだけに意味があるシーンということです。

ヨアンを演じているバスティアン・ブイヨンさんがとてもいいです。映画上重要と思われるシーンでの台詞はほとんどなく、それを表情で表現しています。ナニーにクララが殺されたのは女だからと言われたときの正面からの無言の表情は映画の意図を的確に表しています。

ヨアンは矛盾を抱えた人物です。判事の的確な指示に対して、惚れそうだ(字幕…)と言ってしまい、判事からはやんわりと咎められていました。

ラストシーンではあたかもヨアンが何かから開放されたかのようにも見えますが、おそらくあれは単なる映画的な処理であって、結局、ヨアンは自らが抱える矛盾と戦いながら生きていくしかないのだと思います。

それはまた、すべての男に求められていることだと思います。