見どころはレア・セドゥのワンシーンのみか…
2017年のベルリン映画祭で金熊賞を受賞した「心と体と」のイルディコー・エニェディ監督最新作です。昨年2021年のカンヌ映画祭のコンペティションに出品されています。受賞はありませんでした。
主演はレア・セドゥさん、新境地(私が見ている映画では…)の役柄でこれまでとは違った魅力が爆発していました。
1920年代コスチューム・プレイ
それにしても、なぜこんなクラシカルな(古くさい)映画を今撮ったんだろうと思います。確かに重厚でありながら作りもの臭さの漂う背景はそれにふさわしいものですし、衣装やメイクやヘアもかなり気が使われているように思います。その点ではそれなりに評価されるものかとは思いますが、それにしてもそこで繰り広げられる物語があまりにも陳腐過ぎます。
男の私小説的愚痴話であることはまあいいとしても、いやいや、違います、男の愚痴話以上に描けていないがゆえに女が生きた人物とならないわけですので、それがやりたかったこととするのであれば、それはあまりにも時代錯誤です。
何を言おうとしているかと言いますと(笑)、男が自分の思うようにならない女に、惚れているがゆえに執着し、嫉妬し、自己崩壊しましたという物語を延々見せておいて、それだけなら笑ってすませられるところを、何とこの映画は、最後に、女にごめんなさいと言わせ、さらにその女を理由なく(理由の説明なく)なきものにして、男の自尊心を保たたせることで終わっています。
初っ端からちょっと言い過ぎていますが(笑)、この映画にはハンガリーの作家ミラン・フュストの1942年の小説「A feleségem története(The Story of My Wife)」という原作があり、なんでもこの小説は、エニェディ監督の10代の頃のお気に入りだったそうです(ウィキペディアから)。エニェディ監督は1955年生れの現在66歳の方です。
ということからすれば、原作の1920年代を忠実に再現することも映画のひとつのコンセプトなんでしょう。
オランダ人のヤコブにオランダ人の俳優ハイス・ナバー、フランス人のリジーにフランス人のレア・セドゥー、イタリア人のコードーにイタリア人のセルジオ・ルビーニ、ドイツの若き女性にドイツ人(スイスでした)のルナ・ベドラーといったキャスティングも意図された結果と思われます。
で、不可解なのが、そうした多国籍な人物配置の物語でありながら、またその中にイギリス人はいないにもかかわらず、多くの会話が英語でなされており、その英語が私でも聞き取れる極めてシンプルな日常会話語で行われているのです。
海外のほとんどのレビューがこの点を指摘しています。1920年代のコスチューム・プレイであることを考えれば、ネイティブでなくともかなり違和感を感じるということのようです。アメリカマーケットをターゲットにしたものの失敗だったということかも知れません。
妻の物語ではなく、男の妄想話
原作がどうであるかはわかりませんが、映画が描いているのは、あるいは結果として表現されているのは、妻の話ではなく、夫である男が妻を生きている人間として理解しようとしなかったという話です。
現代的価値観でとらえればそういうことになります。映画はたとえそれが歴史大作(これは大作ではない…)であろうと現代的意味において評価されるものです。
男女の恋愛において、男が女を自らの思うようにコントロールしようとし、それが叶わなかった場合、その関係に執着する限り、男の自尊心はもろくも崩れ去り、アイデンティティクライシスを起こすということです。その時男が戦っている相手は目の前の実存在である女ではなく、脳内妄想の女だということです。
映画の冒頭のナレーションでは、ふたりの始まりはこの一瞬を伝えれば事足りると語り、エンディングのナレーションでもまた、終わりもこの一瞬で語り尽くせる(どちらもかなり違っているかも…)と語っていることにつきます。男ヤコブのナレーションです。ヤコブには本当のリジーの記憶がなく、自らに都合のいい記憶、つまりは妄想に生きているということです。
変化なきリジー、それでも魅力的なレア・セドゥ
貨物船の船長ヤコブ(ハイス・ナバー)が危ない仕事仲間コートーとレストランで話をしています。
いきなり話がそれますが、このシーンだけではなくコートーの登場シーン全体になんだかとても収まりの悪さを感じたんですが私だけなんでしょうか。映画的処理としてとても浮いた感じがしました。
物語としての会話内容もとても奇妙なものだったんですが、それはともかく、ヤコブが最初に店に入ってきた女性と結婚すると冗談を言います。リジー(レア・セドゥー)が入ってきます。ヤコブはリジーをひと目見て、そして、求婚します。
この映画は、このシーンのレア・セドゥーさんがすべてです。唐突で馬鹿げた申し出にもかかわらず、リジーははねつけることなく(映画ですから当たり前ですが)、絶妙な間をとり、ときに視線をそらし、余裕の笑みさえ浮かべて、一瞬にしてヤコブを虜にしていました。妖艶さであるとか、媚といったものを一切感じない、このタイプの女性像のステレオタイプを覆す、現代的な魅力的な人物になっています。
で、これから約3時間、リジーの愛に確信が持てないヤコブの悶えが続きます。リジーが親しく話す男がいれば不倫を疑い、留守中に何をしているか不安になれば探偵を雇って調査し、ついにはリジー本人にも疑いのまなざしや言葉を浴びせるようになります。
リジーはまったく変わりません。最後のワンシーンまでセドゥさんはファーストシーンのリジーを演じ続けます。そういうシナリオなんでしょう。いい方に取ればヤコブの望むリジーが固定化された出会いのリジーであったということになりますが、本当のところはシナリオが物語を映画的に広げられなかったせいでしょう。原作は私小説(という概念がハンガリーにあればの話…)と想像されますのでそのまま映画化すればこうなります。
リジーの謝罪はヤコブの妄想か
ただ一点、ラストのワンシーンだけがそれまでとは違うリジーです。ヤコブはリジーを疑うあまり暴力的になります。リジーは去っていきます。ヤコブは追いかけます。そして、ヤコブが不倫相手と疑う男(ルイ・ガレル)と一緒にいるリジーに株券を返せと言い、離婚を有利に進めるための本人調書のようなものを書かせます。
この手の物語にしてはかなり意表をついていますし、これまで3時間描き続けてきたリジーを一気に日常的な存在に突き落としています。何をやりたかったんでしょう、不思議な展開です。これでヤコブに何が得られるかと言えば、自尊心の回復以外にはありません。
映画全体の中でのこのシーンのリジーの異質さを考えれば、すでにヤコブは現実を見ていない脳内妄想のリジーを追いかけていると読み取るのが最も現代的でしょう。
7章立ては7年後のためか
映画は7章立てで描かれていきます。1章から6章までがどんなタイトルであったかはまったく記憶していませんが、というより果たして意味があったのかも疑問なんですが、7章だけは「7年後」として使われていましたので記憶しています。
7年後、ヤコブはパリ(多分)の街でリジーを見かけ、リジーから紹介されていた女性に電話をします。そして、リジーが6年前に亡くなっていることを知らされます。女性は、リジーがずっとあなたを愛していたとも告げます。
あまりにも男にとっては都合のいい終え方ではあります。