アンダーカレント

映画「アンダーカレント」は 心の undercurrent に迫れているか…

それなりに何本か見ている今泉力哉監督ですが、「街の上で」あたりでもういいかなと思いそれ以降あまり気にかけていなかったところ、主演が真木よう子さん、井浦新さんという大人の映画のようでしたのでもう1本ということになりました。

以下、読み返してみましたら書きすぎているきらいがありますのでご注意ください(ペコリ)。

アンダーカレント / 監督:今泉力哉

この内容で140分は、ちょっと無理…

んー、これはシナリオがダメなパターンじゃないですかね。なにをおいても、映画にまとまりがありません。

軸となっているのは、なぜ悟(永山瑛太)は失踪したのかと、堀(井浦新)はいったい何者かという2つで、その中心にかなえ(真木よう子)がいるという設定なんですが、この3人の、それこそアンダーカレント(心の底流、暗流…)が絡み合ってこずひとつの物語に収斂していきません。

そうした内容のまずさが、いつまでたっても映画の主題が見えてこないという結果となり、各シーンのやたら長い間合いとフェードアウトや黒味の多用で間延びしてしまっています。この内容で140分は引っ張りすぎということです。

かなえと悟は夫婦で銭湯を経営していたのですが、ある時悟が失踪してしまいます。かなえには思い当たることがまったくありません。かなえは気持ちを持ち直して銭湯の営業を再開します。そこに堀が働きたいとやってきます。組合にはその旨依頼はしていたのですが、堀の経歴や持っている資格をみますと仕事に不釣り合いで訝しく感じられるほどのものです。

ということで映画は始まるわけですが、その後、悟の失踪のわけも堀の素性もほとんど進展することなく進み、最後になって実はこういうことでしたと明かされるような映画です。

原作があります。

いっこうに見えてこない主題…

悟の失踪の方は、かなえが探偵を雇い、3ヶ月の調査の結果、かなえが聞いていた悟の経歴が嘘だったことが判明するだけです。いくらなんでもこれじゃ映画になりません(笑)ので、結局、最後になって突然探偵が居場所がわかったとやってきてふたりは海辺の食堂で再会することになります。

肝心の第一の軸がこれじゃ、さすがに140分はもたないでしょう。

で、その間を埋めるのが堀の件なんですが、こちらもいっこうに進展しません。映画中頃に、ああきっと殺された友だちのお兄さんだなとわかりはしますが、問題はそうだとわかることではなく、なぜ堀は今になってわざわざかなえの銭湯で働こうとしたのかですので、それを最後までわからないまま映画を進めるというのはまずいでしょう。

で、その進展しない間を埋めるのがかなえの子どもの頃の事件というわけです。かなえには子ども時代に仲良しの友だち(さなえだったか…)がいたのですが、ある時、河原で暴漢に襲われ、さなえが捕らわれてしまい、かなえはひとりで逃げてしまいます。さなえは池に浮かんだ状態で発見されます。さなえには兄がいたということです。

この子ども時代の事件がどう語られるかといいますと、実はかなえはこの記憶を意識下に閉じ込めてしまっているという記憶障害状態にあり、それが身近で起きた近所の子どもの誘拐事件で呼び覚まされるという展開になっているのです。

心の奥の暗流…?

タイトルの「アンダーカレント」の意味として、映画冒頭に表示されていたのは「1下層の水流、底流  2〘表面の思想や感情と矛盾する〙暗流」です。原作の試し読みにありました。

ということからしますと、映画にはうまく描かれていないとしても、おそらく原作のテーマは、人には表には出ない、あるいは他人にはわからない心の奥底に流れているものがあるということだと思います。

かなえの場合をみてみますと、暴漢に襲われたときに自分だけ逃げたシーンやさなえの母親から問い詰められるシーンを入れていますのでひとつには罪悪感があるということでしょうし、自分が水の中で首を絞められる夢を見ると言い、映像としてもそうしたシーンを印象的に入れているわけですから、自分が殺されたかもしれないという恐怖心もあると考えられます。

これが現実のことだとすれば、かなえの記憶障害は PTSD です。それをアンダーカレントと言っていいものかとは思いますが、それは置くとしても、映画はかなえがそれで苦しんでいるとも描いていませんし、一度よみがえった記憶も次の失神でもうなかったことのようになっています。いずれにしても、それがかなえの暗流だとしても、かなえ自身がそれを自分の底流だと思っていなければアンダーカレントというのはどうなんでしょう。

堀はなぜ今になって戻ってきたのでしょう。たまたまこの町にやってきてバスの中からかなえを見つけ、それが妹のさなえに思えたと言っています。映画ですからそのこと自体にどうこういっても始まりませんが、少なくともその作りものくさい設定がマイナスになっていることは間違いありません。

それに映画は堀のアンダーカレントが何なのかにまったく触れようとしていません。タバコ屋(もうないでしょう…)のおっちゃんに、人間は人に迷惑をかけて生きていくものだ、ぶつかってみろって諭されてかなえのもとに残る選択をさせていましたが、そんな言葉でいったん去ることを決めた気持ちが変わるのであればそれは底流ではなく表の流れです。それに、堀にかなえの後ろを離れて歩かせて、かなえに振り返らせもしない演出は意味不明ですしアブナイです。

で、悟です。

おそらくこれが映画の主たるテーマだと思いますが、人をわかるということはどういうことなのか、また、わかりあえないのではないかということだと思います。

かなえは探偵から、あなたは悟のことを本当にわかっていますかと言われていましたが、探偵に言われるこっちゃないですよね(笑)。探偵と話していることは悟の経歴であって悟がかなえにとってどういう存在であったかではないわけですので大きなお世話です。自分にとってどういう存在であったかが相手をわかるということです。

そしてラストシーン、ふたりは再会し、なぜと尋ねるかなえに、悟は自分には虚言癖があると言います。それだけです。これでは嘘をついてごめんなさい以上のことはないですよね。嘘をついたこと自体は心の底流ではありません。底流があるとすればなぜ嘘をついてしまうかです。映画はそのことに触れようともしていませんし、別れ際、かなえにまだ答えていないと言われた悟は、君を本当に愛していたので自分が耐えられなかった(こんな感じ…)と言い、さらにそう言われれば気がすむかと捨て台詞を残して去らせています。

これ、アンダーカレント云々ではなく単なる結婚詐欺じゃないんですかね。

とにかく、3人それぞれの心の底流、暗流に迫ろうとしているようにも思えません。もちろん、心の奥底なんて人それぞれですし、表に現れる事象それぞれですので、これだという結論を描くという意味ではなく、この映画でいえば、少なくとも3人の心の奥底に流れるものがある種本質的な意味において絡み合っていることを描き、ああ人間って深いものだなあと感じさせなきゃ映画じゃないでしょう。

それにしても、わざわざ自分は虚言癖があると告白するために現れる失踪ってあるんでしょうか? それになぜ悟は探偵を雇ってかなえを調べていたんでしょう?