ギャスパー・ノエ監督の映画への真面目さを強く感じる感傷なき死の描写…
ギャスパー・ノエ監督は、「アレックス」「CLIMAX クライマックス」「ルクス・エテルナ 永遠の光」と見てきた私の中では真面目な監督という位置づけになっています。この映画もこれ以上ない真面目さで人の「死」、最期というものを描いています。
おすすめ映画に入れていますが、決して楽しい映画ではありませんし、人によっては内容以前に見ることそのものに苦痛を感じるかもしれません。また、配信やDVDで見るのはやめたほうがいいと思います。
心より先に脳が腐ってしまう人々へ
映画冒頭はエンドロールから始まります(笑)。完全なエンドロールですので長いです。本編の最後は「Fin」とだけ表示されて終わります。こういう奇妙なことを真面目にやる監督です。続いて、
To all those whose brains will decompose before their hearts.
と、よく映画の最後に誰々に捧ぐと表示される献辞のような文章がきます。「心より先に脳が腐ってしまうすべての人たちへ」という意味です。
この映画は、認知症を患った元精神科医の妻と心臓に病を抱える夫の最期の数日、あるいは数週間を描いています。時の経過にあまり意味はなく、ただただ人が死にゆくその日々を描いて、いや描いているのでもなく、冷酷なまでにただただ見つめているだけの映画です。部屋の中を歩き回ったり、眠っていたり、夫は映画関係の本を書いていると言っていますのでタイプライターを打ったりする、そうしたシーンが2時間強続きます。
冒頭の2、3シーン以降はスクリーンが2分割されて、妻と夫それぞれの画で構成されており、妻が認知症ということもありますが、夫にはあまり優しさは感じられず、ワンシーンを除いて二人の間にコミュニケーションはありません。同じ部屋のふたりのシーンでもその2分割は継続されており、違った角度からの2つの映像で表示されます。それはとても奇妙な感じで、言うなれば壁があるとでも言いますか、そこにいるけれども届かないといった断絶を感じさせます。
カットのつなぎには黒味を入れているようです。切り替わりが一瞬ちらつきます。どういう意図かははっきりしませんが、見るものが不快に感じることは間違いないわけですからそれが目的なんでしょう。逆説的ですけれども、私はこういうところにギャスパー・ノエ監督の映画に対する真面目さを感じます。
とにかく、認知症や、そうでなくても人の最期を描いた映画はたくさん見てきていますが、これだけ寒々とした、感傷を排除した映画は初めてです。
でも、人が死んでいくということはこういうことなんだなあと思います。
ウィキペディアによれば、この映画はギャスパー・ノエ監督自身の体験と母親の認知症にインスピレーションを得ているということです。ギャスパー・ノエ監督は2020年の初めに脳出血で危うく死にそうになったそうです。もちろん、その後快復してこの映画を撮ったということです。
名もなきふたりは朝咲いて夜枯れていく
老夫婦には名前がありません。
Lui/夫、あるいは彼(ダリオ・アルジェント)と Elle/妻、あるいは彼女(フランソワーズ・ルブラン)がバルコニーでワインを飲みながら会話をしています。Elle が「人生は夢だね」と言いますと、Lui は「そうだね」と答え、そして「夢の中の夢」と続けます。
これが映画の中で唯一ふたりの気持ちが通じ合った会話です。
そして、フランソワーズ・アルディの「Mon Amie La Rose」が流れます。この MV そのものだったと思います。
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この曲は、フランスの女優が白血病で亡くなったことを薔薇の花が朝咲いて夜には枯れていくことにたとえて歌われている歌詞だそうです。
Lui を演じたダリオ・アルジェントさんは「サスペリア」などイタリアのホラー映画の監督です。俳優をやるのは初めてじゃないかと思いますが、とても良かったです。1940年生まれの実年齢80歳の役で、人生の終わりが近づいていることを感じる焦りのようなものとか、妻を愛しているのか、単に惰性なのかよくわからない感じとか、あまり優しさを感じさせないところとか、俳優ではないことからの現実感が感じられました。
Elle 役のフランソワーズ・ルブランさんは、つい最近「ママと娼婦」の4Kデジタルリマスター版が上映されていた俳優さんで、こちらのも1944年生まれの実年齢76歳の役です。訪ねてきた息子ステファン(アレックス・ルッツ)に、ここが家なのに家に帰りたいとか、Lui のことをあの人、誰? いつも後をつけてくるとか不安そうにボソボソと話すその様は本当に認知症のようでした。
Lui が朝起きてパジャマのままで書斎にいきタイプライターを打ち始めます。映画と夢に関する「Psyche」という本を書いていると言っています。映画の批評家なのか、映画に関するなにかやってきた人物です。
Elle も起き出して、ゴミを集めて、外に出ていきます。もう自分がどこにいるかわからなくなっています。雑貨屋(かな…)に入り、おもちゃはどこ? と言い、店の中を歩き回ります。次の店に入り、また歩き回ります。なにかを探しているようにみえますが、探しているものがなにかもわからないようです。
Lui が Elle のいないことに気づき、コートを羽織り、外へ出ていきます。よく知った街です。いくつかの店主に妻を見なかったかと尋ね、そして Elle を見つけ、怒って連れ帰ります。すでに認知症を気遣う余裕もないということでしょう。
感傷なき死の描写は真面目さの現れ…
ステファンがやってきます。ステファンはキキという4、5歳の子どもを連れています。Lui とステファンが机に向かい合って話しています。ここも2分割です。キキが金属製のミニカーかと思いますが、カンカンカン!とぶつけて遊んでいます。当然 Lui はイラつき、怒鳴ったりします。
ステファンは、Lui に施設に入ったほうがいいとか、医者に行っているかとか、両親を心配しているようにみえますが、本人も過去に薬物依存(多分…)であったり、妻(離婚しているのかも…)のことであったりとかなり問題を抱えているようで、両親の世話をする金銭的、また精神的余裕もありません。むしろ、逆に Lui に200ユーロ(だったか…)貸してくれないかと言い借りていくくらいです。
さらに悪夢のような日々が続きます。Lui が突然ガス臭い!と台所へ行きガスコンロの栓を締めています。またある日、Lui がシャワーを浴びていますと、Elle が Lui の書斎へ行き、ゴミを片付けようとしているのでしょう、書きかけの原稿を破り、トイレに放り込んで流してしまいます。
Lui はときどき書斎から誰かに電話をして、何度も電話をしているのになぜ掛けてくれないのだと恨み節を留守電に入れています。どうやら女性であるらしいことはわかりますが、振られた相手のようです。後のカフェ(かな…)での映画関係者の集まりでその女性に会い、そこでも助けてくれ…といった感じで泣きついていました。
そして Lui の最期です。心臓病の発作が出たようです。苦しみながら倒れ込みます。Elle がやって来てゆすりますと、Lui はステファンに電話してくれと息も絶え絶えに訴えます。
救急搬送された Lui は病院で静かに息を引き取ります。そのとき、横たわる Lui を真上から撮った2分割の片方が徐々に白くフェードアウトしていき、やがて真っ白になります。
ひとりになった Elle は、あるとき、Lui がいないことに気づき、アパートメントから出て、隣のベルを押し続けます。夜中なんでしょう、隣人はガウンを羽織りながら出てきて、Lui はもういないよと言い、引っ込んでしまいます。
その頃、ステファンは家で麻薬を吸引しています。キキがその姿を見ています。
ステファンの人物背景はほとんど説明されませんが、映画中程に売人をやっているシーンがあり、仲間と老いるのは嫌だと言い合っていました。
Elle の最期です。突然狂ったように大量に処方されている薬をすべて便器に放り込みレバーを引きます。茶色く濁った水とカプセルが渦をなしています。流れるわけもなく、カプセル漂っています。
Elle は台所へ生き、ガスコンロの栓をひって、ベッドに横たわり、白いシーツを頭までかぶります。真っ白になります。
葬儀です。ステファンがスピーチをした後、Lui と Elle の暮したアパートメントの室内がスライドで映し出され、スライドが1枚1枚と変わるごとにあるべきものがなくなっていき、そしてついには空虚ながらんどうな部屋のスライドとなり、やがてカメラは屋外へと変わり、天に登るように舞い上がり、アパートメントを俯瞰したままぐるりと回転して天地が逆さまになり、そして、スクリーンは真っ白になり Fin と入ります。
ふたりのアパートメントはパリ北東部の10区と19区の境界に位置するスターリングラード駅周辺の設定らしく、決して裕福な地域ではなく移民も多いと思います。ふたりの住まいも若い頃から長く暮しているんでしょう、かなり古びており、外に出た街並みや店も雑然とした印象です。
部屋の壁にはゴダールの「女は女である」のポスターや中絶合法化闘争のポスター、1968年の5月革命でしょうか、その頃のスローガンが貼ってあるそうです。おそらく、年齢的にはそうした時代を生きてきたふたりということだと思います。名もなきふたりが消えていくとともに、遠く過ぎ去った時代が歴史としてしか語られなくなる寂しさを感じる映画でもあります。