佐藤泰志さんは、こんな男女は書きません!
佐藤泰志さんの小説はかなり映画化されています。「海炭市叙景」に始まり「そこのみにて光輝く」「オーバー・フェンス」「きみの鳥はうたえる」「草の響き」ときて、この「夜、鳥たちが啼く」で6本目です。「書くことの重さ」というドキュメンタリー映画もあります。
佐藤泰志さんはこんな男女は書きません!
書きません!ってそんな断定的に言っていいのでしょうか(笑)。なにせこの映画の原作『夜、鳥たちが啼く』を読んだ記憶がありません。
いやいや、読んでいるかもしれませんが、なぜか記憶がありません。佐藤泰志さんの小説は、「海炭市叙景」が映画化された2010年頃に書籍化されたものはすべて読んでいます(と記憶しています)が、どうしてもこのタイトル「夜、鳥たちが啼く」を目にしても何も思い出せません。この原作は『大きなハードルと父さなハーソル』に収録されているとのことです。
本を読んだ読後感は別サイトに書いています。確かに『大きなハードルと小さなハードル』は読んでおり、そこには「英雄もの」と呼ばれる連作5作品と別に2作品が収録されているとあり、2作品のうちの『鬼ガ島』は別記事で書いていますが、なぜか『夜、鳥たちが啼く』に関しては何も書き残していません。
当時そのひりひり感にやられてしまい、佐藤泰志さんの小説はすべて読もうと考えてすべて読んだ記憶です。なのに『夜、鳥たちが啼く』は全くよみがえってきません。
ということですので、仮にこの『夜、鳥たちが啼く』を読んでいないにしても、それなりに佐藤泰志さんの書くものを理解している前提でいえば、やはり「佐藤泰志さんはこんな男女は書きません!」。
後日、原作を読み直しました。
脚本:高田亮
慎一(山田裕貴)のもとに友人の妻裕子(松本まりか)と子どもが居候することになります。そして最後は、ふたりが関係を持ち、その後、家族となるかもしれないという話です。
さすがにこの設定自体は原作のものでしょう。でも、慎一と裕子の人物像は原作と映画とでは全く違うと思います。
映画では、慎一は過去に文学賞の新人賞をとっており、専業作家を目指していますが、その後は思うようなものが書けないでいます。その書けないことのもやもや感が前面に出ており、同棲していた恋人の浮気を疑って職場に乗り込み暴力騒ぎを起こしたり、作家仲間に当たり散らしたりするという人物で、自らの弱みを隠そうともしない人物です。同棲中のシーンでも恋人に当たり散らすシーンしかありません。当然恋人は去っていきます。
佐藤泰志さんは、こういう自分の弱みをまともに外に出す人物は書きません。弱みであるかどうかはこの際は置いておいて、仮にそうした社会的に弱いとされるものがあるにしても外には出しません。ストイックということです。恋人に当たり散らしたり、ましてや恋人の職場に乗り込むような「みっともない」人物は書きません。そうした行為がみっともないかどうかを言っているのではなく、仮に恋人が浮気をしてもそれを自らに問い返すような人物を書きます。
裕子は、慎一が以前働いていたライブハウスのオーナー(かな?)の妻です。夫に別の女性ができ離婚したようです。慎一のもとに居候するようになってからなんでしょう、裕子は息子のアキラを寝かしつけてから遊びに出ていくようになります。夜、目が冷めてひとりだと寂しいというようなことを言っていました。後に慎一と関係を持つシーンで、今日は誰とも寝ていないよと言っていましたので、男と遊ぶことが目的で遊びに出ているという設定なんでしょう。
行動パターンだけで言えば、佐藤泰志さんはそうした女性を書きます。でも、決してひとりが寂しいなどと言葉にする人物は書きませんし、そのように感じられる女性も書きません。
この映画の慎一は、裕子が引っ越してきたその日から、いずれふたりは関係を持つだろうことを感じさせる演技をしています(させられています?)。そして、後半になりふたりは関係を持つわけですが、その後の慎一はなにか憑き物が落ちたかのように吹っ切れて、それまで夜な夜な書き上げた小説を破って当たり散らしていたシーンもすっかりなくなってしまいます。
そんなわかりやすい人物を佐藤泰志さんは書きません。
裕子は裕子で、やたら体を求めてくる慎一に止めてよ!と拒否しながらもなぜか体が反応してしまうような演技をし(させられ)て自ら積極的に慎一を求めていました。
いい加減にしてほしいですよね、こういう女性の描き方は。
佐藤泰志さんの原作の映画を見るたびに書いていますが、佐藤泰志さんの書く人物は男であれ、女であれ、精神的ハードボイルドなんです。仮に自分に世の中から見て弱みとみられることがあってもそれで卑下したり、それを人に見せることで距離を縮めようとはしません。世間に抗うように生きる人たちです。
この映画に描かれている、男の弱さや女の弱さ、その男女間のやり取り、互いの求め合い方、そして傷を舐め合うように結びつく男女、といった人物像は脚本の高田亮さんのものです。高田亮さんは、佐藤泰志さんの映画化にあたっては「そこのみにて光輝く」と「オーバー・フェンス」の脚本を書いています。それ以外の映画では「さよなら渓谷」「武曲 MUKOKU」「ボクたちはみんな大人になれなかった」を見ていますが、この方はそのどの映画でも昭和的情緒で人物を描いています。
夜鳴く鳥の意味は…
仮に私の見方が正しいとするならば、原作のあるものを映画化する場合に守るべきものは、その設定ではなくその作品のテーマであり描かれる人物像だと思います。
『大きなハードルと小さなハードル』をもう一度読んでみようと思います。
ところで、『夜、鳥たちが啼く』のタイトルにはどういう意味があるのでしょうね。映画では不穏さを感じる鳴き声を使っていましたがほとんど生きていませんでした。原作を想像して思うのは、鳥はあまり夜鳴かないと思いますので世間に抗う自分たちのことをさしているのかもしれません。