ティエリー・トグルドーの憂鬱/ステファヌ・ブリゼ監督

ラストシーンが意味不明、あそこであのように切れる理由がわからない。

母の身終い」のステファヌ・ブリゼ監督、最新作です。

主演のヴァンサン・ランドンさんも引き続いての出演で、昨年のカンヌ映画祭で男優賞を受賞しています。

ところで、この映画、なぜシネコン(ミッドランドスクエア シネマ)での上映となったのでしょう? 土曜日ということもあり、全体としてはかなり混雑していたのですが、この映画だけは数えるほどの観客でした。

なのに!?、この劇場、なぜか以前から、いっぱい席が空いているのにくっつけて客を入れるところで、私はネットで予約しておいたのですが、一列がら空きなのに隣に人が座っていました。まさか人恋しくて、自分で隣をとったわけでもないでしょうに…。

考えて欲しいものです、ミッドランドスクエア シネマさん!

リストラで1年半も失業中の中年男ティエリー。やっとの思いでスーパーの監視員の仕事を手に入れる。これで家族を養いローンも返済できると思った矢先、職場で残酷な現実に直面して…。2015年のカンヌ国際映画祭でヴァンサン・ランドンが見事に主演男優賞を受賞。シリアスな社会問題を描いているにもかかわらず、フランス本国で100万人を動員する快挙となった。(公式サイト

さて、この映画、邦題が主人公ティエリーの心情に焦点を当てたような「ティエリー・トグルドーの憂鬱」となっていますが、原題は「La loi du marché」、「市場の法則」といった意味とのことです。

日本語では「市場原理」という言葉が浮かびますが、映画もそうしたタイトルのほうがピッタリしており、「憂鬱」とかいった感情的なものを際立たせようとする意図はなく、フランスの労働環境を淡々と描いているような印象です。

ただ、その視点は客観的というわけではなく、あくまでも失業中の男ティエリー・トグルドーを追っているのに、そこに「怒り」であったり、「絶望」であったりの感情的なものをあえて入れない、意図的に排除するというつくりなのです。

実際、ティエリーは何を考えているのかよく分かりませんし、そこに「憂鬱」を見るのは見る側の感情移入でしょうし、ラストにしても、なぜブチ切れたのかかよく分かりません。

もちろん、不条理な現実を目の前にしているわけですし、その現実のある一方に自分はいるわけですから耐えられなくなったのだとは思いますが、不正を犯したら罰を受けるというのは「市場の法則」とはまた違った次元の話ですので、あのラストシーンがあるためにこの映画が非常に分かりにくくなっています。

それまで、仮にじっと耐えてきたとしたら、なぜあそこでブチ切れるのでしょう?

あそこで切れるような人間なら、その前に、リストラされた会社に対して、元同僚たちと一緒に闘っているでしょう。あるいはまた、求職のグループ研修の場で、自分に対する批評をあんな穏やかな顔をして聞いていないでしょう。

私には、あのラストシーンに、監督の思いとは違う力が働いているような気がして仕方ありません。

ヴァンサン・ランドンさんという俳優さんは、「母の身終い」でも、この映画と同じように、ほとんど感情の起伏が見えない(見せない)演技でした。

ただ、「母の身終い」がこの映画と違うところは、他の俳優、母親役のエレーヌ・ヴァンサンさんやいっとき付き合うことになる女性役のエマニュエル・セニエさんらは、皆うまい俳優さんだということです。

一方、この映画はヴァンサン・ランドンさん以外は、皆素人の出演者(らしい)ということです。職安の職員、元同僚、スーパーの同僚、銀行員などなど、皆俳優ではなく、演技経験のない、実際そこで働いている人々らしいのです。

ステファヌ・ブリゼ監督がどんな映画を作ろうとしたかは分かりませんが、この映画、とにかく、受けの俳優がいないのです。ヴァンサン・ランドンさんの抑えのきいた抑制的な演技に対して、それを意味づけする相手役がいないのです。

「母の身終い」が、尊厳死や親子関係をあつかった、一般的には感動ものになりやすい物語であったにもかかわらず、感情的な描写を完全にそぎ落として、それでもなおかつ、心に突き刺さるような強いインパクトを残せたのは、そうした俳優間の緊張感があったからだと私は思います。

この映画に次のシーンがあるとすれば、再び職探しに奔走するティエリー・トグルドーの姿でしょうし、実際、切れるにしても、そうしたシーンで終えるべきだったと思います。

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