監督に才能は感じるが、「9歳の時に養子に」という自他ともからの固定化が邪魔をしていないだろうか?
「冬の小鳥」、もう6年前ですか…。
いい映画との記憶もかなりぼやけてきています。2,3年に1本は撮ってほしい監督ですね。
この映画においても、映画的な物語の運び方や俳優の使い方に才能は感じますが、果たして再びこのテーマというのはどうなんでしょう…。
『冬の小鳥』で監督デビューを果たしたルコントが、待望の2作目を完成させた。夫も息子もいる自立した女性を主人公に据え、30年の歳月を経て見えない糸に導かれるようにめぐり逢う母と娘を描く。映画は彼女たちの揺れ動く思いにそっとよりそい、見つめ、向き合う。そして、二人がそれぞれに毅然と歩み始める新しい人生。(公式サイト)
と、書き進めてみましたら、あまりいいことが書けませんでしたので、先に良かったことを書いておきます(笑)。
上に「物語の進め方がうまい」と書きましたが、先へ引っ張っていく映画作りには長けていると思います。俳優の力の使い方や編集や、ちょっとやり過ぎ感はありましたが、音楽の使い方であるとか、かなりうまいと思います。
理学療法士であるエリザが、治療(施術)のために患者の裸の体をマッサージするカットがかなりありましたが、これが全体のトーンにかなりいい影響を与えていると思います。
特に、母であるアネット(アンヌ・ブノワ)に「他人の体を触ることは気持ち悪くない?」と尋ねさせ、エリザ(セリーヌ・サリット)に「どういう意味か分からない」といったようなことを他の台詞とトーンを変えずに言わせているのは効いていました。(ただ、字幕ですので原語ではどうなのか分かりません)
時々ピントをはずしたボカした画を意図的に入れており、これの意図がよく分からなかったのですが、分からない割には悪くなかったです。何をやろうとしたんでしょうね?
エリザとアネットが互いに親子と認識した後にアネットの兄のレストランで会う場面は、途中中抜きがされていましたので残念ですが、エリザの勢いと戸惑うアネット、そして意を決して、アネットが母と兄に向けて放つ自立する言葉「自分のことは自分で話す」と続き、人間関係が微妙に変わっていくシーンでとても良かったです。ただ、なぜ中抜したんでしょう?
エリザのセリーヌ・サレットさん、いいですね。何本か見ているようですが、主演は初めてなんでしょうか、記憶に残っておらず、でも、この映画ではっきり記憶に残りました。
以上が以下を書き終えてから書き足した部分で、本論は次からです。
ウニー・ルコント監督は韓国生まれですが、9歳の時に養女としてフランスの家族に引き取られ育てられたという過去を持っており、その自身の心情の反映として、もちろん物語自体は創作でしょうが、「冬の小鳥」を撮ったということでした。
で、この「めぐりあう日」、再び、今度はフランスでの物語ですが、養女として育てられた女性が、30歳にして、子供や夫まで犠牲にして、実の母を探し求めるという話です。
それだけ自身の過去へのこだわりが強いのでしょうか。
私は、この映画にはかなり違和感を感じます。
もちろん、実の親子関係を求め合う物語は映画だけではなく、あらゆる表現形態にある「物語の定型」ですので、それを題材すること自体は何ら問題ないのですが、この映画の中のエリザ(セリーヌ・サリット)の描かれ方はかなり異常です。
なぜ、今、そこまで実の母を追い求めるのでしょうか?
所詮物語という意味ではその概念自体は理解できますが、ただ、このエリザは、母を求めることで家族をぶち壊しているわけです。言い方が正しくないですね。ぶち壊しているのか、他の理由によってすでに家族は壊れているのか、映画は語ろうとしていませんし、そのことに意識が向いているようにはみえないという意味です。
現在妊娠していることを告げられたエリザは、生む生まないで迷っているようですが、その際、8歳の息子ノエに関して「この子を産んだ時は父親を愛していた」と言っています。言い換えれば、「今は愛していない」ということです。実際、お腹の中の子を夫にも告げずに堕ろしてしまいます。
なぜ今は愛していないのか、映画は全く語ろうとしません。
一方、夫アレックス(ルイ=ド・ドゥ・ランクザン)は、今もエリザを愛しているようですし、ベッドを共にすれば性的関係をあるようです。映画の中のワンシーンでは、エリザは拒否はしませんが、乗り気ではなく、なぜか涙を流し、結局行為は中断されます。
結局、このエリザとアレックスの関係、そして家族の関係が全くわからないのです。
もし、エリザがアレックスを愛せなくなったとするのなら、それはなぜなのか? そのことと実の母のことはどういう関係にあるのか? アレックスは愛されいないことに気づいていないのか?
仮に、ノエの風貌にアラブ系を感じさせるところがあることが何かのきっかけとなっているのなら、行動を起こすのは「今じゃないでしょ」。
この映画は実の母を求める話なのだからそんなことはどうでもいい、わけはないのです。
共に愛しあい、8年前に初めての子どもが生まれ、特に問題もなく順調にやってきた(と見える)夫婦の、ある一方である女性が、ある日突然、実の母を探すと言って、子どもを連れて出て行ってしまう、この映画はそういう物語です。
子どもは実の親を求めるものという、(あるいは作られた固定的な)概念からこの映画見れば「感動もの」かも知れませんが、一歩引いて、この物語を現実の中に置いてみれば、かなり異様な話に映るのです。