もう一年前になりますが、「君は永遠にそいつらより若い」を見て、その構成力に驚いた吉野竜平監督のデビュー作「あかぼし」を見てみました。10年前の作品です。
構成力は確かだが、導入は…
DVD鑑賞、それもパソコンのディスプレーで見ていますとなかなか集中力も続かず、ストーリーを追うことに気がいってしまいます。やはり映画は劇場で見ないと本質的なことをつかむのは難しくなります。
そうした条件下で見たこの映画ですが、それでも「君は永遠にそいつらより若い」で感じたとおり、吉野竜平監督の構成力の確かさが感じられます。長編デビュー作にして、これだけしっかりした内容のものというのもすごいのですが、テーマ的に過剰さがなく、なんとなく伝わってくるというのがなおいいです。
母親と子どもの関係が基本的な軸にはなっていますが、そこに父親の不在、いじめと子どもたちの力関係、反抗心からの自虐性といった時代のもつ社会病理のようなものがそれとなく周辺に散りばめられ、終わってみればそれらがうまく絡み合ってやり場のない行き詰まり感のようなものがじわーと残ります。
ただ、この映画では導入部分があまりよくありません。
夫がある日突然失踪してしまい虚脱状態に陥った佳子(朴路美)の描写から始まるのですが、かなり演技が説明的です。佳子が働く家事代行サービスの同僚たちの台詞によれば、夫の失踪は6ヶ月前のことです。その同僚たちの説明台詞にも引きそうになったのですが、え? 佳子は6ヶ月間この状態? と声が出そうになりました。
長編デビュー作ということで伝えたい気持ちが先にでてしまったのかもしれませんし、佳子を演じている朴路美さんのキャラクターが出ているのかもしれません。かなり力が入った演技をしています。
親が親として振る舞うべき規範を失った社会
逆に言えば、その佳子の過剰さが映画のテーマ的にはいい方へ出ているとも言えます。
母親佳子は一貫して身勝手です。映画の中で佳子が息子保(亜蓮)の方を向くことは一度もありません。夫の失踪に関しては自らの不幸を嘆くばかり(かどうかは演技が一面的なのでわからないが…)ですし、宗教に入信することでその心のすきが埋まれば、今度はその布教活動で自らの承認欲求を満たすことにしか気持ちがいきません。そしてひとたびその欲求が満たされないとなるや、心のすきは妬み心や憎悪で満たされ、復讐心だけの布教活動に自らを駆り立て、保のことなど気にかけることもありません。
映画は佳子をそのように描いています。同情の余地なく描いているわけですから母親である佳子そのものが主題というわけではなく、そうした親の元では子どもはどう振る舞うのか、あるいは親が親として振る舞うべき規範を失ったこの社会の行き詰まりを描くことがこの映画のテーマなんだろうと思います。
社会に放り出される子どもたち
保は、叔母(佳子の妹)から、男の子なんだからお母さんを守ってあげなきゃダメなんだよなんて言われています。守られなくてはいけない子どもがです。
佳子の宗教活動においては、保はまさしく母親である佳子に利用されます。その時でも保は「楽しいです」と笑顔を見せます。それにつれて子ども社会の中の力関係も変わり、保はいじめる側からいじめられる側に変わっていきます。
吉野監督のうまさは、この子どもの力関係の変化を引きの画で次のようなカットを入れていることです。いじめられていた子が保の変化を察知し、一緒に帰ろうと声をかけるも、保がお前なんかと!と突き飛ばすシーンです。
引きの画であることがとても重要です。こういう手法を各所に使っています。また逆のパターンでアップの画も効果的に使っています。上に書いた、叔母が保に男なんだからというシーン、叔母が組んだ自分の足で保の足をちょんと蹴るカットをアップで入れているのです。こうしたアップのカットを効果的に各所に入れています。
保とカノン
宗教団体の地区リーダーの夫婦に中学生(か高校生か?)の子どもカノン(Vlada)がいます。ロシア系の俳優を使っており、保がカノンに両親は違うよねと尋ねるシーンでも何も語りませんのでキャスティング自体には宗教的な何かをイメージさせるくらいで映画的な大きな意味はないようですが、その後の会話でカノンが保を家出に誘うシーンになります。
保がカノンに「あの二人のこと嫌いなの?」と尋ねますと、「嫌いになれたらいいんだよね。嫌いだったら話がすっごくわかりやすいんだよ、だけど、あの二人のことが嫌いになれなくて、すっごく好きなの。それがやっかいなんだよね」と言い、さらに一緒にいると自分が何のために生きているのかわからなくなるとも言います。
カノンはもうひとりの保ということでしょう。さらにカノンは女性であるがために援助交際という形で性的搾取にさらされています。これは映画の割と早い段階からそれらしき画が、これも引きの画で、2、3カット挿入されているだけです。こういうところがうまいところでしょう。あざとさやベタさがないです。
音叉、あかぼし
宗教団体を抜けた佳子はひとりで布教を続けますが、それは宗教心というよりもそれが唯一の自己確認の手段であるかのように思い込む偏狭さからのもので、当然うまくいくはずもなく保に当たり散らします。ある時、保が佳子に本音をぶつけます。それでも佳子は保のことを思いやることなく、逆に、あんたも私を裏切るんだと、保を遠ざけ、自分自身に拘泥していきます。
それを吉野監督はこういう引いた画を挿入して客観性を確保します。
その後、保はカノンに一緒に家出することを申し出ますが、カノンと一緒に深夜バスに乗るための新宿へ向かう電車の中で母親佳子のもとに帰ることを選択します。そして、自宅のチャイムを鳴らしドアを開けた母親佳子に「一人ぼっちの人には幸せになる資格があります。幸せになるお手伝いを僕にさせてください」と布教の決まり文句をいうのです。
その時の保はつくり笑顔であるにしても満面の笑顔を浮かべているのですが、ドアを開けた佳子は部屋の明かりのバックライトでまったく表情の見えない真っ黒のままなのです。
このシークエンス、カノンと別れた後の保は電車とバスを乗り継ぎ家に走って帰ります。カノンは大阪行きの深夜バスに乗り、その窓から新宿のネオンと星空を眺めます。交互に長く長く撮られています。どちらにも希望など見えません。佳子に象徴される身勝手で理不尽な社会では、子どもであれ、女は社会に翻弄され、男は社会に飲み込まれて生きるしかないということでしょうか。
「あかぼし」がなんであるかははっきり語られていませんが、カノンが父親が星に詳しかったと話し、北斗七星の下に輝くアルクトゥルスを希望に見立てて語っていたことと保がいっとき母親に決別するときに見た空に舞う赤い風船を意味しているのだと思います。
父親の不在は、父親のギターと音叉で表現されています。特別父親の不在にこの悲劇の原因を求めているわけではないとは思いますが、映画的には必要な要素であってもちょっと気になるところではあります。