あつい胸さわぎ

ネタバレレビュー・あらすじ・感想・評価

このところ舞台劇が映画化されたものをよく見ているような気がします。今年に入ってからでも「そして僕は途方に暮れる」がありましたし、昨年は「もっと超越した所へ。」がそうでした。その年の「わたし達はおとな」や「そばかす」も演劇畑の監督の映画でした。たまたまなのか、何かの傾向なのか、どうなんでしょう?

この「あつい胸さわぎ」は横山拓也さんの演劇ユニット「iaku」の同名タイトルの舞台劇が原作で、監督はまつむらしんごさん、脚本は高橋泉さんとなっています。

あつい胸さわぎ / 監督:まつむらしんご

ドラマとしてうまく出来ている

おもしろいですし、とてもうまく出来ています。舞台劇くささ(っぽさ)がまったくありません。

これを舞台でどうやってやるんだろうとググってみたところ、物語自体はほぼ同じですが、つくりは会話劇を基本としているようです。「iaku」のサイトにも

緻密な会話が螺旋階段を上がるようにじっくりと層を重ね、いつの間にか登場人物たちの葛藤に立ち会っているような感覚に陥る対話中心の劇

iaku

が特徴の演劇ユニットとあります。

この点では、映画「あつい胸さわぎ」は舞台とは違うものと考えたほうがいいかもしれません。間合いのいい掛け合いはありますが、言葉を積み重ねて場の空気を作っていくという映画ではなく、ドラマっぽいドラマといいますか、ことの運び方が小気味いい映画です。

とにかくうまく出来ています。人物配置もドラマとして無駄がありませんし、物語の運びも軽やかですし、会話の間合いもいいですし、俳優も皆うまいですし、全体としてすきがありません。

ですので、逆にうまく出来すぎている、つくられすぎているとの印象が残る映画です。

主題はなんだろう…

ずいぶん前に劇場で見た予告編の「私の胸はお母さんに食いちぎられる」の言葉が印象に残っており、母娘の愛憎物語だと思っていましたら、そうではなく、娘である千夏(吉田美月喜)が女の子から大人へと変化する思春期物語でした。

それに、公式サイトや映画紹介サイトには「若年性乳がん」との言葉が出てきますので、乳がんをめぐる母娘の葛藤が物語の軸となっていくんだろうとも予想していたんですが、確かに乳がんは主要な要素ではありますが、病としての乳がんというよりも、公式サイトの宣伝文句になっている「おっぱいなくなっても、恋とかできるんかな…」に象徴されるように、異性に見られる、あるいは触られる対象としての乳房という描き方のほうが強い内容です。

原作も男性、脚本も男性、監督も男性という制作陣からの結果でしょう。

あらすじ

主要都市からちょっと離れた海岸沿いの町(ロケ地は和歌山らしい…)、紡績工場で働く昭子(常盤貴子)と娘千夏(吉田美月喜)の母娘の物語です。

昭子は、千夏が幼い頃に夫を亡くしひとりで育ててきています。気さくな性格で物事をはっきり言葉にします。千夏は18歳(かな…)、主要都市の芸大の文芸学科に入学し電車で通学しています。夏休みです。自分の初恋を題材にした小説を書くようにとの課題が出されています。

千夏は幼馴染の光輝(奥平大兼)に恋心を抱いています。光輝も同じ芸大に通っていますが地元を離れています。夏休みですので、光輝も地元に戻ってきます。そのひと夏の物語です。

千夏には、中学生の時に光輝から言われた「胸が大きくなったなあ」の言葉が焼き付いています。また、千夏はそれ以前に自分の胸に関して母昭子への不満を持っています。ブラジャーをなかなか買ってくれなかったのです。小学生の頃の水遊びのフラッシュバックがあります。千夏は一緒に水を掛け合って遊びたいのにブラジャーをしていないがために水に濡れることを嫌がっているシーンです。

母昭子の職場の同僚に透子(前田敦子)がいます。千夏も親しく、千夏が芸大を選んだのも透子の影響とも言っています(演劇や文学に詳しく光輝との関係への前ふり…)。千夏もとうこちゃん(だったかな…)と呼んでいます。千夏は透子に、男の人に胸を触られるのってどんな気持ち? などと尋ねたりしています。

千夏は、そうした幼い頃からの胸に対する思いを光輝への恋愛感情とからめて小説に書いていきます。

しかし、光輝は千夏をまったく恋愛対象と見ていません。光輝が透子に興味を持ちます。透子と千夏の親しさと光輝が透子と初対面(のようだった…)ということにかなり違和感を感じましたが、とにかくふたりが男女の関係を持ちます。

透子は、それ以前に、名前は言わないまでも(狭い社会だからわかるでしょう…)、千夏から光輝の話を聞かされており、まあ大人であれば千夏が光輝に恋心をもっているとわかるとは思いますし、ましてや千夏の話を聞き、その子は千夏のことが好きなんだよと言っているにも関わらず、光輝と関係を持ち、その後千夏の初恋の相手が光輝だったとは知らなかったような行動をとるというのはなんとも不自然ではあります。

とにかくそんなこんなで、千夏は、光輝が執拗に透子に迫りキスする現場を見てしまいます。その時千夏はその場に崩れ落ちていました。

かなり意表をついたシーンです。一般的なドラマパターンでいけば、走り去って部屋に閉じこもるか、ふらふらと道路に出て轢かれそうになるシーンを想像します。その後にしても、逆に透子に大人になれなんておとなしく諭されるというのも、さらに言えば、ラストでは光輝とも特にわだかまりなくいい関係にもどすというのも、思春期物語としては現実感が薄い感じがします。小説を書かなくてはいけないための千夏の擬似恋愛体験みたいな話にもみえてきます。

こういうところがドラマとしてつくられすぎているということです。

同時進行で進む昭子の恋愛話もそうです。昭子は職場に新しくやってきた係長(三浦誠己)と親しくなり、好意を持ち始め、きっと相手も自分に好意を持っているだろうと思い、告白か?と思ったその場で振られてしまいます。まあ、一般的には大人であればあれはありません(笑)。

こうしたあれこれがあり、ラストは、知的障害のある幼馴染の崇の思いやりある優しさで締めくくっていました。

あれ? 乳がんの話が抜け落ちてしまいました。

見つめられる乳房…

やはり、乳房が異性から見つめられるもの、触られるものという視点で描かれた映画ですね。崇がティッシュを配りながら「恋愛に乳房は必要?」(みたいな質問だった…)のアンケートを取って千夏に見せることで、千夏がある種の踏ん切りをつける結末がそれを示しています。

女性がそうした感覚で乳房を認識しているかどうかはわかりませんが、少なくとも、乳がんが発見されたときに一番最初に結びつくのは病としての乳がんであり、生死を意識する問題じゃないかと思います。

すでに書きましたようにこの映画は乳がんについて深く描くことを主題としているわけではなく、思春期の恋愛感情が主題と思われますのでどうこういうことではありませんが、ちょっと気になる点ではあります。

また、うまく出来ていることの裏腹ではありますが、ドラマくささに気になる点が多いです。透子(前田敦子)や係長(三浦誠己)の存在と設定がかなりあざといです。

もっとシンプルに千夏と昭子の母娘関係の葛藤に焦点を絞ればドラマを超えた映画になっていたように思います。千夏が書く小説の中の一文、

私の胸はお母さんに食いちぎられる。あいつに無茶苦茶胸をかき乱されて、しこりに占領されて、この胸は誰にも触られることなくなくなってしまうのかな。

を昭子が読むシーンがあります。激しい言葉です。かなりのショックでしょう。このシーンがあまり生かされていないのが残念な映画です。

ところで、この一文、原作のものなんでしょうか? 前半の激しい思いが、なぜ後半の「この胸は誰にも触られることなくなくなってしまうのかな」に続くのかがどうしても理解できません。

もうひとつおまけです。

前田敦子さん、最初に舞台劇の映画化(関連)としてあげた「そして僕は途方に暮れる」「もっと超越した所へ。」「そばかす」にも出ていました。さらに遡れば「くれなずめ」も舞台劇の映画化です。前田敦子さんの台詞の間合いが舞台人に好まれるのかも知れません。