アナクロ的母娘ものファンタジー、原作を読んでみたらそのとおりだった
公開時、気にはなっていたのですが優先順位で結局見なかった映画です。主演は戸田恵梨香さんと永野芽郁さん、監督は廣木隆一さん、原作は湊かなえさんです。
戸田恵梨香さんと永野芽郁さん
DVD視聴ですからなんとも言えませんが、感想としては、えらく説明的な映画だなあということと主演ふたりが役に合っていないんじゃないかと思います。
説明的ということは後回しにして、キャスティングですが、これまでですとスルーしていたであろうこの映画が、なぜ鑑賞リストにあがったかは戸田恵梨香さんの名前を見たからです。名前程度しか知らない俳優さんでしたが、しばらく前にちらっと見たテレビドラマの印象がえらくしっかりした演技をする人ということで記憶していたということです。
この映画のルミ子(戸田恵梨香)は、母親離れしておらず世間知らずなんですが、だからといって依存心が強いわけではなく、義母の強圧的な態度にも不平不満を言うことなく耐えている人物です。いわゆる昭和、それも戦前か戦後すぐあたりの母親イメージです。ただ、映画はその忍耐を見せようとしているわけではなく、その背景に異常な母親愛があるということを語ろうとしているんだと思います(いや語ろうとはしていないかも…)。
戸田恵梨香さんが演じて違和感なく感じる(私の…)のは芯が強く、それを隠さず表に表す人物です。まあ見た目の年齢もありますが、実母(大地真央)に依存して甘えるシーンなんて嘘くさくみえますし、また逆に義母(高畑淳子)のひどい物言いにも言い返さずに従っているのもなんだか気持ち悪いです。
ただ、そうだとしてもこんな現実感のない描き方(それが狙いかも…)じゃなければそう感じなかったようにも思います。
永野芽郁さんの方は、単純に見た目の年齢に違和感がありすぎます。中学生か高校生でしょう、コメディならいいにしてもシリアス系は見た目の違和感を避けないと映画に集中できません。
原作を読んでみた…
もう一つの説明的だなあと感じた方は、感じただけじゃなく説明映画そのものです。頻繁にナレーションで説明されますし、そのナレーションも「母の真実」や「娘の真実」とスーパーが入り、その度に戸田さん、永野さんと声が変わります。それに「母親の真実」にしても神父に告解する語りスタイルで物語が始まります。
ところで、この映画に興味を持った理由がもう一つあり、それは脚本に堀泉杏さんの名前があったことです。伊藤ちひろさんの別名義ということのようですが、「窮鼠はチーズの夢を見る」や「サイド バイ サイド 隣にいる人」を見て名前に記憶が残っている方です。
こんなシナリオを書く人? と思い、原作を読んでみました。
んー、この原作ならこのシナリオで正解かも知れませんね。日本の映画界には自分の価値観で原作を捻じ曲げてしまう脚本家もいますが、このシナリオはきっちり原作を押さえているように思います。
原作は六章と終章で構成されており、六章はそれぞれ「母性について」「母の手記」「娘の回想」と3つに分かれています。「母性について」は、映画では現在軸として描かれる清佳(永野芽郁)が教師になっているシーンにそのまま生かされています。「母の手記」「娘の回想」はそれぞれ一人称記述で語られており、母親の方は神父への告解というのもそのままです。
いくつか省略されているところもありますがほぼ完璧に原作が生かされたシナリオになっています。おもしろくないくらいに(ゴメン)原作通りです。
母性について…
この映画がおもしくろないのは原作のせいです。
映画にしても原作にしてもミステリーと言われていますが、あまりミステリー要素はありません。そもそも謎があるわけではありませんし、ルミ子が実母の死の真相を隠していたというだけのことです。つまり、ルミ子と清佳の「美しき家」が台風で崩れて、さらに火事が発生し、実母と清佳が倒れた家財の下敷きになって動けなくなっているときにルミ子が清佳よりも母親を助けようとしたことから、実母はそれをやめさせようと自ら舌を噛み切り(映画では喉にハサミを突き刺して…)自殺したということです。
原作からして現実感の乏しい物語です。湊かなえさんの小説は他に読んだことはありませんが「告白」を見たことがあります。子どもをネタにして大人たちを喜ばすだけの映画だったように記憶しています。そう言えばこの映画も女子高生の自殺事件で始まっていますし、清佳もことの真相を知り自殺未遂をしています。こうした題材の多い作家なんでしょう。
タイトルの「母性」にしても「母性について」のパートにしてもそんな話じゃないです。ルミ子は母親を愛し、母親に愛されるのは自分でなければならないという人物というだけで、母性というものがあるかないかはここでは置いておくとしても、ふたりの間に母性が介在しているかどうかという論点の問題ではありません。
また、清佳は母親に愛されたいと思っているのにそれがかなわないと思っている人物で、これだって母性云々とは関係ありません。
ですので、そもそも原作自体に母性というある種限定的な、また特殊にも聞こえる感情を描こうという意識はないように思います。
ただし、原作の最後には清佳の一人称で
時は流れる。流れるからこそ、母への思いも変化する。それでも愛を求めようとするのが娘であり、自分が求めたものを我が子に捧げたいと思う気持ちが、母性なのではないだろうか。
とあります。また、映画のラストは清佳がルミ子に子どもが出来たことを電話で告げるシーンで終わっています。
つまり、女性が我が子を愛することを母性と言っているわけで、それは早い話、原作にも映画にも男の影が薄いということに現れているように、子どもを生むことの出来る女性には子どもを生むことが出来る女性にしかない感情があると言っているんだと思います。
まあ当たり前のことだとは思いますが、問題はそこではなく、その言葉を取り立てて強調したりしますと、その言葉がまた社会的に違った意味合いを持ち始めることに気づいているかどうかだと思います。