DOGMAN ドッグマン

リュック・ベッソン監督が帰ってきた!

リュック・ベッソン監督、なに以来か思い出せないくらい久しぶりです。サイト内を検索しましたら「マラヴィータ」「ルーシー」以来です。10年ぶりのこの「DOGMAN」、すでに自分の撮りたいと思うものがなくなっているんじゃないかと思われるリュック・ベッソン監督ですのでどうなんでしょう。

DOGMAN ドッグマン / 監督:リュック・ベッソン

リュック・ベッソン監督が帰ってきた!

いやいや、そうでもなさそうで、リュック・ベッソン監督が帰ってきたとも言える映画です。

性的暴行容疑が晴れて復帰したという意味ではありません。この「DOGMAN」が「レオン」以前の初期のリュック・ベッソン監督のテイストだという意味です。

とにかく、面白いです!

リュック・ベッソン監督のテイスト、持ち味をひとことで言えば「冒険活劇」です。おそらくジャンルにはこだわりはないのでしょう。殺し屋の話にしようと思えば「レオン」や「ニキータ」になりますし、SFを思いつけば「フィフス・エレメント」になりますし、歴史ものをやりたくなれば「ジャンヌ・ダルク」といった具合です。「グラン・ブルー」も本人の体験や実話をベースにした海洋冒険ロマンです。

製作や脚本として関わり、シリーズ化されている TAXi、トランスポーター、96時間もアクションものです。これらの映画にもリュック・ベッソン監督のアイデアが他の監督によってアクションものとして純化された部分があるんじゃないかと思います。

さて、この「DOGMAN」は子どもが家庭内で監禁されていたというニュースを見たことから発想されたという映画です。どういう内容のニュースかはわかりませんが、社会派映画にならないところがリュック・ベッソン監督らしいと思います。

数奇な運命ものとでも言えばいいのか…

ケイレブ・ランドリー・ジョーンズさん演じるダグラスが「ジョーカー」を思わせるダークヒーローですので、復讐もののようにもみえますが違います。ダグラスの行動は誰かを恨んでのものではありませんし、社会に復讐しようとしているわけでもありません。

数奇な運命ものとでも言えばいいのか、父親の虐待によって運命づけられてしまった犬と交感できる才能を最大限に活かして自らの生きる道を探っていくという話です。

父親や兄への復讐心も描かれませんし、犬を使って金持ちの貴金属を盗むことも富の分配だと言っています。いわゆる義賊ということです。ただ、おそらくこれはあと付けですので重要なことではないでしょう。犬たちをどうやって養っているんだとの疑問にどう答えるかというプロット上の整合性だけだと思います。

保険屋の殺害やラストのギャングとの銃撃戦も復讐とはまったく関係ありませんし、こうした展開はアクションものであれば避けては通れない必然でしょう。

早い話、リュック・ベッソン監督が考えていることはいかに面白くするかということだと思います。ラストシーンの十字架にしても大した意味はないと思います(笑)。

きっとリュック・ベッソン監督にとっては、エディット・ピアフやマレーネ・ディートリッヒを歌うダグラスのシーンのほうがずっと重要と考えているんだと思います。

父の虐待、恋、そして失恋…

ある夜、一台のトラックが警官に止められます。運転席には血だらけの女装した男、そして荷台に数知れない犬たちが乗せられています。

精神科医のエヴリン(ジョージョー・T・ギッブス)が事情聴取するために呼ばれます。多分、男が情緒不安定とみた警察が専属のエヴリンを呼んだという設定なんでしょう。

男はダグラス(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)と名乗り、自分の半生を淡々と語り始めます。その様子からは、長い苦しみに耐え、絶望と戦いながら生きてきた悲しみと強さが感じられます。

この映画、ケイレブ・ランドリー・ジョーンズさんでもっているところが大きいです。「ニトラム」では、映画の評価とは別にケイレブ・ランドリー・ジョーンズさんに釘付けになると書いています。この映画でも相当入り込んでいます。憑依型と言いますか、メソッド俳優ですね。

少年時代、ダグは闘犬の調教(かな…)をやっている暴力的な父親に逆らい、犬の檻に閉じ込められます。それ以来ダグは犬とともに生きてきています。母親は夫に逆らえず家を出ていきます。兄は父親に従いダグにつらく当たります。ある時、父親が激怒し(よくわからなかった…)銃を持ち出します。ダグは犬のように叫んで抵抗します。父親が銃を撃ちます。ダグの指が吹っ飛び、跳ね返った弾がダグの背中に当たり脊髄を損傷、それ以降ダグは下半身が麻痺して歩けなくなります。

ダグは血まみれの自分の指をビニール袋に入れ、一頭の犬にそれを警察に持っていくよう指示します。犬たちとの長い生活で交感できるようになっているということです。

父親と兄は逮捕され、その後父親は自殺し、兄は収監されたということです。これ以降家族の話は出てきません。こういうところが冒険活劇だという所以です。犬との交感もそうですが、理屈をすっ飛ばしてもそれなりの映画的説得力があるということです。

施設に入ったダグはそこでサルマという女性と出会います。サルマは俳優であり、子どもたちの情操教育の一環として演劇を教えにきています。サルマはダグラスに自分以外の人物を演じることを教えます。ダグはこの時、マクベス、ハムレット、ロミオとジュリエットなどシェークスピアの数々を演じてそれらすべてを暗記したと言っています。

ダグはサルマに恋心を抱いているわけですが、サルマは俳優の道を目指して去っていきます。ダグはその後も新聞記事をスクラップすることでサルマのサクセスストーリーを追いかけ、ブロードウェイのスターとなったサルマの舞台に駆けつけます。覚えてくれているかと不安をいだきながら面会を求めるダグ、サルマはひと目見てダグと声をかけ熱く抱擁してくれます。が、しかし、サルマからは夫がいる上に妊娠していると告げられます。

ダグ、エディット・ピアフになる…

サルマへの失恋でドラマが動くことはありません。映画のスタイルが、ダグ自ら半生を語るという手法ということもありますが、この映画にはダグの人生が不幸であるとの視点はありません。これがリュック・ベッソン映画のひとつのポイントでもあり、また、この映画が復讐譚ではないということでもあります。父親からの虐待も、両足の機能を失ったことも、サルマへの失恋もダグの人生のひとコマ以上の意味はありません。もちろん、それはドラマ構成上のという意味であり、ダグを演じるケイレブ・ランドリー・ジョーンズさんにとっては役作りのための重要要素です。こうしたことから結果としてとてもバランスの取れたエンターテインメントとなっているということです。

社会に出たダグは仕事を探しますが見つかりません。募集チラシを見て入ったキャバレーでは剥がすのを忘れていたと言われます。それでもそこがドラァグクイーンのショーをやっていると知ったダグは自分はシェークスピアをすべて暗記している、歌も歌えると売り込みます。

そして、ダグは舞台に立ち、エディット・ピアフのラ・フールを歌います。

口パクのものまね芸ですし、エディット・ピアフの歌を1.5倍速で流しているような感じでしたがなぜか涙がこぼれます。リュック・ベッソン監督のうまさです。

ダグは週に一日舞台に立つことになり、マレーネ・ディートリッヒやマリリン・モンローを演じます。

ある日、突然役人がダグを訪ね、資金難のためこの施設を閉鎖するとやってきます。カットされているんだと思いますが、ダグはその能力を買われて迷い犬を保護する施設のトレーナーのような仕事をやっていたようです。役人たちがダグの威圧感に圧倒されビクビクしている様子もこうした映画には重要な要素となっています。

後日、役人たちが撤去のためにやってきますとそこはもぬけの殻です。ダグは犬たちとともに廃墟となった学校に移っています。ただ、犬たちの住居は確保できたものの犬たちの食費も必要です。ダグは犬を使って資産家の貴金属を盗み出します。

このプロットだけでも一本の映画ができそうですが、この映画ではあっさりしています。保険屋が防犯カメラの映像から犬たちとダグの仕業と目星をつけ、キャバレーの客としてダグの前に現れ、そのまま後をつけてダグのアジトにやってきます。

このあたり、細かくはどういう展開になっていたかはっきりした記憶はないのですが、実はかなり最初の方で、一人の若者がこの時点のダグのアジトを訪ねて、ギャングにみかじめ料を要求されて苦しんでいる友人がいるので助けてほしいと頼みに来るシーンが入っています。

言うなれば「ゴッドファーザー」です。音楽まで「Speak Sоftly Love」が流れていました。

音楽監督は盟友とも言えるエリック・セラさんですが、その劇伴以外にこうした古めの曲が何曲か使われています。目立ったところでは、どこかでユーリズミックスの「スイート・ドリームス」が使われていました。

その歌詞には「あなたを虐待したいと思っている人がいます 虐待されたいと思っている人がいます」といった部分もある曲です。

で、ダグは犬たちを使ってそのギャングのボスの股間を噛ませて脅しをかけ、また、仕返しをするんじゃないと念を押していたのですが、そのギャングたちが急襲してきます。

保険屋も殺されていたと思いますが、とにかく銃撃戦となり、ダグも怪我はするもののギャングたちをこてんぱんにやっつけます。もちろん犬も大活躍です。犬は一頭も死んでいなかったと思います。

わりとあっさり目のアクションシーンでした。クライマックスシーンはこれしかないけれども、ただ、これが見せ場というわけではないということでしょう。

そして、ダグはイエスになる(のか…)…

そして冒頭の、血だらけで助手席に座る女装したダグと荷台の犬たちのシーンに繋がります。ダグは拘束され、エヴリンから事情聴取されることになります。犬たちはダグの指示によって荷台から飛び出し町中に消えていきます。

事情聴取を終えたエヴリンが、なぜ私に話したの? と尋ねますと、ダグは同じ痛みを持っているからだと答えます。エヴリンは子どもと暮らしているわけですが、離婚した夫には接近禁止命令が出ていると、2、3シーン挿入されて語られていました。

まあ、ここまでしなくてもとは思いますが、こうしたことも含めてリュック・ベッソン監督だということです。

ラストシーンの十字架も同じことでかなり付け足し感があります。犬たちが警官から鍵を奪い留置所からダグを出します。ダグは基本歩けないのですが、それでもよろよろと警察署から外に出ます。向かいは教会です。日が差し始めて路上にはその影が出来ています。ダグが両手を広げて倒れます。そこに教会の十字架の影がかぶさります。犬たちが集まってきます。

という、いかにもリュック・ベッソン監督らしい、こんな話があったら面白いだろうと思ったに違いない映画です。

ところで、リュック・ベッソン監督を知りたければ「レオン」ではなく、「サブウェイ」を見るべきです(笑)。