言葉のないところに叙情的風情が生まれる。2025年、現実の世界は「世界」になる。
ジャ・ジャンクー監督が帰ってきた! そんな感じのする映画です。
前作「罪の手ざわり」のレビューを読み返してみますと、ジャ・ジャンクー監督の何かが変わっていく過渡期ではないかなどと書いていますが、結局「青の稲妻」や「世界」に戻ったのでしょう。
ただ、当然十年余という時間は、人も、そして国も世界も大きく変化させますので、監督自身の意識も「外へ」から「内へ」と変化しつつある、これもまたひとつの過渡期なのかもしれません。
世界三大映画祭すべてで受賞をはたしたジャ・ジャンクー。最新作で描くのは、母と子の愛から浮かび上がる、過去・現在・未来へと変貌する世界と、それでも変わらない市井の人びとの想い。本作は第68回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品された。
およそ世の中に叙情的じゃないものはないのですが、たとえば映画の場合、それをどう描くは人それぞれで、ベタに描く人もいれば、拒絶する人もいるわけで、ジャ・ジャンクー監督の場合で言えば、距離を置いて見つめるということになるのでしょう。
タオ(チャオ・タオ)が、雪の中、ペット・ショップ・ボーイズの Go West で踊るラストシーンは、まさしくそのシーンであり、ジャ・ジャンクー監督が帰ってきた!という意味においては、「世界」において、同じくタオが、ロシア人ダンサーと無言のまま会話するあのシーンにも通じるものです。
ジャ・ジャンクー監督の特徴だと思いますが、言葉のない間合いに叙情的な風情が生まれるという感じがします。
2014年、再会する母と子は抱擁しあうこともなく、互いに違和感を感じつつも、それでもなお、母はできるだけ長く共に過ごそうとし、子は戸惑いながらも、それはそれ、そうしたものだと大した思いもなく身を委ねても、それが母の記憶として心の奥底に残ってしまいます。
言葉を介さない叙情は音楽に託され、やがて2025年、ダオラー(ドン・ズージェン) の記憶を呼び覚ますこととなり、子がひとこと「タオ」と呟けば、それは遥か1万キロの距離を飛び越えて、母をして、二十数年の時間を忘れさせ、忘我のごとく踊らせることになるのです。
ということなんですが、この映画、特別、母子の関係を描こうとしているわけではないと思います。母子の関係を軸に据えることが、結果として「時代の流れ」を描く最適な方法だと考えられたからでしょう。
日本から見ていても中国という国の変化は凄まじいわけですから、その中で生きている人々にしてみれば尚更でしょうし、およそものを作る人間であれば、そのことに鈍感であることはできないでしょう。
時代の変化という意味では、映画を単純化してしまうことになりますが、説明するまでもなく、タオの夫となるジンシェン(チャン・イー)は経済成長によって裕福になる中国ですし、リャンズー(リャン・ジンドン)は取り残されていく中国ですし、ダオラーとミア(シルビア・チャン)は、膨張していく中国ゆえのアイデンティティ・クライシスということになります。その意味でいけば、ひとり、雪が舞う中で踊るタオの存在こそが、今実感できる唯一確固たる自分自身なのだと語っているとも受け止められます。
映画作りという点では、あれやこれや策を弄するような監督ではありませんが、今回は、各時代のスクリーンサイズをスタンダード、ビスタ、シネスコ(くらいのサイズ)で表現するという、かなり単純な手法をとっていました(笑)。
それに、1999年のシーンで、人物が背景にうまく溶け込んでいなかったのは、古いビデオ映像を使っていたからでしょう。
冒頭、いきなりあの三人が20代と言われてもさすがに違和感は拭えませんが、まあそれも、そのままやり切る率直さが気持ちいいといえば気持ちいいということになります。逆に2025年のジンシェンの老け演技が気になりましたね。
見落としてよく分からなかったことがあります。
1999年のシーンで、タオが飛行機の墜落を目撃する場面があり、え?何事?と思ったものの、その後忘れていましたら、確か2014年のシーンだったと思いますが、同じ場所を、夜だったのか、やや暗めでとらえたカットがありました。カーブする道路に誰かがいましたが見逃してしまいました。あれは誰だったんでしょう?
もう一度見てもいいかなと思える映画でした。