おお、見応え充分のシリアス系…と、終わってみればラブコメ系!?
ハンガリーの映画です。昨年2017年のベルリンで金熊を受賞しています。
全く知らない監督ですので公式サイトの紹介を見てみましたら、1989年にデビュー作の「私の20世紀」という映画でカンヌのカメラドールを受賞し、その後数本をヴェネチアやロカルノに出品していますが、この映画は1999年以来18年ぶりの長編とのことです。
IMDbを見ても別に休んでいたわけではなく、ドキュメンタリーやTVドラマを撮ったり、自身の制作会社も持って活躍している方のようです。
監督:イルディコー・エニェディ
で、映画ですが、見る前からかなりのシリアス系と想像し、見ている間も7割方までこりゃいいぞ、このままいって変にまとめないでねと期待と願望を持って見ていたのですが、なんと終わってみれば、年の差カップルのラブコメか?と判断に迷ってしまいました(笑)。
ただ、映像的にはかなり興味を持ちました。(おそらく)被写界深度の浅いレンズを多用しているのだと思いますが、モノやカラダの細部など、ある一部以外はぼかしたカットが非常に多く、またガラスやビニールシート越しのぼけを意識的に取り入れていました。
それらがどのような効果を持つかは見る側にもよりますのでなんとも言えないのですが、多くはマーリア(アレクサンドラ・ボルベーイ)の精神的属性、過度な潔癖症にも見えますし、パーソナリティ障害にも見えるわけですが、そうした内面を表現するためのものだったのだと思います。
ただ、結果としては、そうしたマーリアの精神的属性が何であったのかはよくわからないですね。ラスト、セックスによって、あるひとつをのぞいて解消してしまったようにもみえましたし…。
ブダペストの食肉工場が舞台です。
食肉用の牛が屠殺されていくシーンもあり、牛が何やらベルトコンベアのようなものに乗って近づいてきたかと思いますと、何かの一撃で倒れ、チェーンで釣り上げられ、首から頭部が切り取られ、その断面をとらえたカットはかなりグロテスクです。大量の血も流れます。
ああ、我々はこうやって処理された肉を食べているんだなあと、なんとなく考えていました(笑)。
その屠殺シーン以外にも血の流れるカットは幾度となく挿入されるのですが、全体として顔をしかめるようなグロさという感じではなく、清潔に保たれていることもあり、血は流れるけれども、すでにその血は、本来生きものが流す「生死」を分ける血とはかけ離れたものであるかのような感じさえします。
ちなみに、ラスト近く、マーリアも血を流します。
エンドレ(ゲーザ・モルチャーニ)はその食肉工場のボス、財務部長です。このエンドレの年齢設定はいくつくらいなんでしょう。見た目は初老、独身で、すでに恋愛や男女関係にも枯れたところを感じさせる年齢に見えます。ただ、同僚の人事部長とのやり取りを考えますと50代の後半くらいの設定かもしれません。
このエンドレの年齢設定や人物像のわかりにくさが映画そのもののわかりにくさに通じているように思います。単純に、恋愛などもういいやと思っていた男が再び目覚めたみたいに考えればいいのかもしれませんが、他の登場人物に比べますと妙にリアリティ(実在感)があり浮いた感じがしていたのですが、公式サイトを見てみますと俳優さんじゃないようです。
ほとんど顔の筋肉が動かないんですよね。それに精神分析医からの性的な質問に対する反応も妙に違和感がありましたし、新しい従業員に対する威圧的な態度もその表情と雰囲気に似つかわしくありませんでしたし、これは思い違いかもしれませんが、職場にいるエンドレを撮ったカットの多くがやや下から撮られていたのではないかと思います。
で、その工場に産休をとった食肉検査員の代理としてマーリアがやってきます。マーリアは自ら人に話しかけることもなく、休み時間も仕事場である机から動こうともせず、昼食時に気遣ったエンドレが話しかけてもちぐはぐな答えが返ってくるだけです。また、仕事上においても、食肉の検査を規則通りにやるために、脂肪が2ミリ、3ミリ多いだけでBランクにしてしまいます。
このマーリアの精神的属性が何なのかが前半の映画的謎ですが、机の上の水やごみをていねいに拭うカットを幾度か入れたり、住まいを余計なもののない極めてシンプルな部屋にしていましたので潔癖症のコミュ障にもみえましたが、定期的に通っているらしい精神科医のセリフに、大人は自分の専門ではないというものがありましたので、おそらく子どもの頃から親が通わせ本人にも自覚があるということでしょう。
話がむちゃくちゃ長くなっていますね(笑)。
で、ある日、その工場で交尾薬(となっていますが、牛のためのバイアグラのようなもの?)の盗難事件が発生します。
警察の捜査が始まり、担当の刑事が犯人を探るために全員に精神分析医のカウンセリングを受けるように提案します。このこと自体にちょっと笑ってしまいますが、その費用を警察か工場のどちらが払うかの会話を入れたり、その刑事にサーロインの肉を持たせたり、(屠殺現場を見たのでしょう)部下の警官の気分を悪くさせたり、非常に細かいところに気を使ったつくりになっていたのはかなり良かったです。
ということで、カウンセリングが始まるのですが、この精神分析医のキャスティングがかなり意図的で、肉体的に女性らしさを強調したグラマラスな俳優を当てており、いきなりその胸のアップから始まり、エンドレの視線が釘付けになり、エンドレがその無礼(というような言葉を使っていた)さを謝罪するのです。さらにそのシーンは、医師がエンドレに「精通はいつだったか?」って、50、60のおっさんが覚えているわけないだろう(笑)というようなことや「勃起不全ですか?」といった質問に続いていき、エンドレが動揺かつ怒り的興奮することになるのです。
このあたりからこの映画がちょっとわかってきます。
どういうことかと言いますと、この映画、この二人が夢の中で鹿として出会うという映画であり、冒頭も雪景色の中の二頭の鹿で始まり、何ヶ所か、全体では数ヶ所程度そうしたシーンが入るのですが、それらはとても美しく、静謐な印象ですので、そのトーンの映画かと見つつもどこか違和感があり、それはつまり、その二頭が堂々たる角を持った雄と、対してかなり清楚で小柄に見える雌であることが強調されているように感じていましたので、この中盤あたりから、この映画が描こうとしているのは、人間の持つ性的な心と体のずれのようなものかもしれないと思い始めたわけです。
そう考えますと、エンドレの同僚が「妻がこの工場の半分と寝ている」とか、「お前も寝たのか」と尋ねたりする会話や、交尾薬を盗んだのがその同僚であったり、実際にその妻とエンドレに関係があったりするのもそうした流れの中のことでしょうし、また新入社員をいわゆるナンパ系の人物にしてマーリアに言い寄らせるなど、主だった人物がなにかしら性的な意味を持たされているようにも感じます。
以下、端折ります。
その分析医のカウンセリングによって、雪の森の中で鹿として出会うという同じ夢を見たことを知ったマーリアとエンドレは、互いに、より意識するようになり、その後も同じ夢を見ていることがわかったエンドレは積極的に対しようとしますが、マーリアの(よくわからない)精神的属性が邪魔をしてなかなかうまくいきません。
それでもなんとか一緒にランチをするところまでいき、エンドレは思い切って一緒に寝て同じ夢を見ようと提案し、もちろんセックスなしの一夜をともにし、眠れずにトランプ(?)で朝をむかえた二人ですが、たまたまエンドレがマーリアの腕に触れたところ、マーリアは避けてしまいます。
ただ、マーリアもひとりになれば、エンドレとの会話をソルト&ペッパー(?)や人形でシミュレーションしたり、主治医に相談し慣れることだとアドバイスを受ければ、愛の歌を聞いたり、アダルトビデオを見たり(?)と、エンドレと親しく関係を持ちたいと考えているのにうまく自分の体をコントロールできないのです。
しばらくして(だと思う)、そうした自己訓練を経た(?)マーリアは、エンドレにもう一度泊まりに行くと伝えますが、今度はエンドレが、これ以上は無理、友達としてやっていこうと突き放します。
マーリアはバスタブに浸かり手首を切って自殺しようとします。
このシーン、あらすじで書いてしまいますと、は?という感じかもしれませんが、全く違和感はなく、マーリアが徹底した無表情さを貫いていますので、どこか人間を超越した(とは言いすぎだけど)神々しささえあります。
ところが、この後は完全にラブコメです。
バスタブが血で染まった時、エンドレから電話があります。エンドレ「君を愛している」(もう少し長かった)、マーリア「私も愛しています」
バスタブから飛び出したマーリアは、手首をテープでぐるぐる巻き(笑い)に応急処置をし、病院で処置を済まし、エンドレのもとに駆けつけ、そして二人はセックスをするのです。ただし、この時もマーリアは無表情のまま無言で大きな瞳でエンドレを見つめ、一方のエンドレは体を動かしながら次第に息が荒々しくなっていくのです。
そして朝、マーリアが朝食のトマトを切るとその果汁がエンドレにかかり、思わずマーリアに笑顔がこぼれ、エンドレが「昨日は夢を見なかった」と言いますとマーリアも「私も」と答えるのです。
ただし、エンドレがパンを食べようと机にパンくずを落としますと、マーリアはパンくずをじっと見つめ、そのパンくずがさっと拭われる(例の)カットで映画は終わるのです。
ああ、もうワンカット、鹿のいない森のカットがありました。