はたして18キロ増量は必要だったか?
シャーリーズ・セロンが役作りのために18キロ(諸説あり)増量したという映画です。同じように13キロ増量して撮った2003年の「モンスター」は、なぜか劇場公開時には見逃してしまっていますので二の舞は踏めずと早速見に行きました。
完全にシャーリーズ・セロンひとりの映画でした(笑)。
それはそれで悪くはなかったのですが、18キロ増量が空回りしている感じです。
なぜ増量したかは、子育てに疲れ、生活に疲れ、そして若さを失っていく中年の女性を演じるためということなんでしょうが、正直、そこまでしなくても。あなた(シャーリーズ)ならこの役演じられるでしょう、と思います。
逆に、無理やり増量したことが気になって仕方ありません。せめて数キロくらいにしておくべきだったと思います。
現在マーロ(シャーリーズ・セロン)は3人目の子供を妊娠中です。ふたりの子供の内、男の子ジョナ(6,7歳?)が情緒不安定で、学校から呼び出しを受けること頻りのようです。車で学校へ送った際に車を停めるところがいつもと違うからと、もう何も受け付けなくなり、後部座席からマーロの座席を蹴飛ばし続けるというシーンを見せていました。
夫ドリュー(ロン・リビングストン)は、マーロを気遣ってはいますが、子育てや家事はすべてマーロがやっています。これは、ドリューが何もやらないのか、マーロが自分でやらないと気がすまないのか、仮にそうだとしても、ドリューがやらなかったからそうなってしまったのか、このあたりのことは曖昧でよくわかりません。おそらく、映画の視点はそこにはないということでしょう。これは、ラストシーンにも現れており、育児、家事の分担や家庭における男女の役割のようなことを問題にはしていません。
この映画にそうした視点がないとは言いませんが、とにかくこの映画はシャーリーズ・セロンにつきます。ですので、どちらかと言いますと、浮かび上がってくるテーマは、若さ(青春)の喪失とあきらめ、そして現状追認です。現状追認がテーマというのもおかしなことですが、結果としてそうなってしまっています。
で、物語ですが、マーロには兄夫婦がおり、その兄が出産祝いにと、夜だけベビーシッターを雇う券をプレゼントしてくれます。映画は特別語ってはいませんが、マーロが育児、家事に追われて疲れていることや過去の育児の状況を知っていて心配したのかもしれません。案の定、マーロは知らない人間に子供は預けられないと、礼は言うものの考えようともしません。
女の子が生まれます。喜びもつかの間、これまでの育児、家事に加え、夜間の授乳で睡眠も取れず、ジョナの学校からはこれ以上引き受けられないの通告を受け、さすがのマーロもこれ以上は無理と夜だけベビーシッターを頼むことにします。
そして来たのがタリー(マッケンジー・デイヴィス)。マーロは不安を感じつつも、タリーのフレンドリーさに押されるように赤ん坊を任せて眠りにつきます。
朝起きてみれば、ベビーシッターの完璧さだけではなく、散らかり放題になっていた部屋まできれいに片付いています。って、マーロが起きた時にはもうタリーはいないって、どういうこと?(なんてツッコミはなしで(笑))
それ以降もタリーのベビーシッターぶりは完璧で、さらにタリーは、何でも頼ってとマーロに言い、それにつれてマーロだけではなく家庭内が一変、トラブルがなくなり、ジョナも落ち着きます。(というか、それらしいシーンがない)
そんな感じのシーンが何シーンか続き、ある日、タリーがマーロにマンハッタンに繰り出そうと誘い出し、夜中にふたりで飲みに行きます。
二人のおしゃべりは、マーロの青春時代の話題になり、ふたりはマーロが住んでいたアパートに向かい、マーロが、シェアしていた友人がまだ住んでいると興奮状態になります。タリーが彼女はもういいないわよと諭すも、もうすでにマーロの心は青春時代に飛んでしまっています。
この後の展開がどうだったかはっきりしませんが、ふたりはマーロの運転で家に戻ります。
が、マーロは眠気に誘われ、川へ転落、マーロの妄想の中では、タリーが救い出してくれます。
そして、病院、ドリューは医師からマーロが睡眠障害であることを告げられます。ベビーシッターが来てからのマーロは生き生きしていたのにと不思議でなりません。ドリュー(じゃないね、誰だ? 兄か?)が病院の受付かナースセンターだったかで、マーロの旧姓は?と聞かれ「タリー」と答えます。
タリーはマーロの妄想の中の人物、若き頃の自分自身だったということで、全て自分でやっていたということなんですが、今ふと思うのことは、なぜ旧姓を聞かれたの? タリーってファミリーネーム?(ここ突っ込みどころじゃないのでいいんですけどね)
ということで、ラストシーンとして、ドリューが家事を手伝ったりするシーンがあるのですが、最初の方に書きました通り、この点に映画は注目していません。そもそも、可哀想ですが夫であるドリューは映画の中では大して重要な立場ではないです。それに、病院にもタリーが現れてふたりの会話があるのですが、そこで語られることは、もう青春、つまりドリューと結婚する前の、たとえばマンハッタンで夜な夜な遊んだ日々はもう帰ってこない、家事に育児、こうした日々を続けていくしかないのねと半ば諦めのように語り合っているのです。
18キロ増量が空回りというのはこのことで、もし映画が現状追認の諦めであるのなら、それはそれである種の絶望が浮かび上がってくればいいのですが、そもそも脚本にも演出にもそうした意図はなさそうですし、シャーリーズ・セロンにもそうした役柄は合いません。どうしたってシャーリーズ・セロンは強いキャラクターですし、18キロ増量の意志強固な姿がマーロに見え隠れしてしまいます。
シャーリーズ・セロンさん、18キロ増量なんてしなくてもマーロくらいの役は演じられるでしょう。