階級社会が色濃く残るインド、女性はどう生きる?
「あなたの名前を呼べたなら」のタイトルに、メイドの女性と裕福な男性の物語とくれば、立場が違うがゆえの悲恋物語なんだろうと割と簡単に想像できてしまいますが、この映画、そうまんざら捨てたもんじゃないです。
確かに、悲恋ではないにしてもそれに近いものだったのですが、意外にもベタなところもなく、どちらかと言いますと、よく知らないながらもインドの現実はこんな感じなのかとリアルに感じられる映画でした。
ひとえに、メイドのラトナをやっているティロタマ・ショームさんのおかげでしょう。
ところで字幕ですが、この映画、言語は英語、ヒンディー語、マラーティー語が入り混じっている(らしい)のですが、字幕にはその表記が何もありません。
これはダメでしょう。どの言語で話しているかは、階級であるとかどの集団に属しているかを現しているわけですから、それを無視した字幕では映画がわからなくなります。
日常的には、ラトナはヒンディー語(の方かな?)、雇い主のアシュヴィンの方は仕事も日常生活もほぼ英語、ラトナがアシュヴィンに用がないか尋ねたりするときは当然原題にもなっている「Sir」である英語、ただ、時としてヒンディー語で交わされる時があったように思います。
そうしたことをしっかりと字幕で表現してほしいですね。
それに、ラトナの台詞に、自分は「田舎もの」、雇い主のアシュヴィンたちを「都会の人」との表現がありましたが、原語では何といっていたのか、カーストや民族の違いではないんでしょうか?
公式サイトにあるロヘナ・ゲラ監督のインタビューを読みますと、やはり、これは映画のテーマにかかわることです。よもや字幕制作者が理解していないことはないでしょうから、やはり「田舎もの」という意味の言葉だったんでしょうか…。
映画は極めてシンプルなつくりです。長編デビュー作ですが、気負ったところもなく丁寧につくられています。その分前半はやや退屈します。もう少しラトナのファッション・デザイナーへの思いであるとか、メイド仲間やドライバー、警備員など、つまり同じ階級の人たちのリアルな生活の描写を入れるとかすればよかったのにと思います。
ラトナは結婚して何ヶ月といっていましたか、夫を亡くしている未亡人です。この未亡人というのも大きな意味を持っており、ラトナが生きてきた世界では未亡人になれば人生が終わると語っています。つまり、再婚など及びもつかず、居場所さえ失ってしまうということです。ラトナがムンバイへメイドとして働きに出られているのは口減らしだと言っていました。
冒頭、田舎に戻っていたラトナがムンバイの雇い主のもとに向かうバスの中のシーンで、しまってあった腕輪を腕にするところがあります。村では腕輪などの装飾物も身につけられないということでしょう。
アシュヴィンは父親が経営する建設会社の跡継ぎです。アシュヴィン自身は、それを望んでいるわけではなく、アメリカでライター(のような?)として暮らしていたところ、兄が亡くなり、跡を継ぐために呼び戻されたわけです。
映画は、アシュヴィンの結婚が破談するところから始まります。なんでも、妻が浮気をしていたということです。
ラトナとアシュヴィンは、全く違う価値観の世界で生きているということです。
ラトナはファッション・デザイナーになりたいという夢を持っています。たしかに本人がそう語ってはいますが、それはデザイナーというところに力点が置かれているわけではなく、むしろ、自分や妹に着せたいもの、もう少し突っ込んだ言い方をすれば自分の着たいものを自分で作りたいという意味で捉えたほうがしっくりきます。
ラトナは、アシュヴィンに願い出て午後の2時間だけ裁縫を習いに洋品店や学校のようなところで技術を学びます。
という、ふたりの生きる世界の違いの描写が(結構単調に)続きます。
アシュヴィンの方は、父親、母親、友人たちとの関係において、そしてラトナの方は同じ階級(階層?)のメイド仲間や警備員たちとの関係において、その違いは実は簡単に乗り越えられるのだろうけれど、現実には、何の壁もなさそうにみえても決して越えられないとてつもない高い壁があることが示されます。
アシュヴィンの両親の家(だと思う)でパーティーがあります。当然、客は西欧化された富裕層(階級は?)です。ラトナたちメイドやドライバーたちが駆り出されています。客たちからの主従関係は明白なんですが、パーティーがほぼ終わり、ラトナたちがキッチンで床に座り込んで食事をしている時、アシュヴィンがラトナに一緒に帰るかというようなことを尋ねにきます。
後に、ラトナはアシュヴィンに、仲間たちからからかわれて恥ずかしかったと言います。
そのパーティーの後、アパートメントに戻ったアシュヴィンはラトナにキスをします。アシュヴィンが真剣なのはラトナにも伝わっているのですが、ラトナは、未亡人だからといって(字幕では)情婦になるのは嫌だと一線を越えることを拒否します。
そもそも、ラトナはアシュヴィンが結婚し夫婦で暮らすことを前提にメイドに来ているようで、実際、独身のアシュヴィンではよからぬ噂も立っているようです。
この映画、普通の恋愛ものであれば、こういうところは結構盛り上げられそうなシーンではあるのですが淡々と進めています。そうしたところは好感が持てます。
結局、結末としては、アシュヴィンはアメリカに戻る決断をします。その決断を父親に伝えるシーンでは、ラトナとのことを感づいている父親に賢明な決断だと答えさせていました。このあたりはこの映画の限界、つまり、富裕層(階級は?)の子どもとして育ち、西欧的価値観の中で育ったロヘナ・ゲラ監督の限界かなとは思います。さらに、アシュヴィンは、ブティックを営む友人にラトナを紹介してアメリカへ飛び立っています。
ラトナの携帯にアシュヴィンから電話が入ります。
アシュヴィン「ラトナ…」
長い、長い間の後、
ラトナ「アシュヴィン…」
で、映画は終わります。
インドという国を出なければ、こうしたふたりの恋愛が実を結ぶことはないということなんですが、現実的には、ラトナはアメリカへは行かないでしょうし、仮に行ったとしてもうまくいかないでしょう。ラトナはそのことをよく知っているように思います。
ティロタマ・ショームさんが演じたラトナは、そう判断するだろう聡明さを感じさせます。
それぞれの人物描写や背景につっこみ不足のところも感じられますが、総じてあざとさや嫌味がなくうまくまとめられていると感じられる映画でした。