Arc アーク

不老不死をホームドラマのように描かれても…

不老不死を題材にした映画を撮ろうとすれば、一般的にはファンタジーかSFになるのではないかと思いますが、なんと!この映画はごく普通のドラマ(?)でそれを描こうとしています。

挑戦的な試みなのか、原作のトーンがそこにあるのか、あるいはほかに思いつかなかったのか…どうなんでしょう?

Arc アーク

Arc アーク / 監督:石川慶

17歳から132歳まで生きた女 

タイトルにした132歳という年齢は間違っているかも知れませんが、この映画のポイントは、ある女性が30歳(くらい)で不老不死を得て、その身体を持ったまま89歳(くらい)まで生き、そしてあることを契機にして再び老いて死ぬことを選択し132歳になるというところにあります。

原作がどうであるかはわかりません。この映画を見てこの描き方ならこれを描かなければ意味はないということです。

あり得ないことは物語を語るだけではダメ 

え? 描いてるじゃん、と言われるかもしれません(笑)。

確かに、リナ(芳根京子)は天音(岡田将生)に一緒に生きようと言われ、不老不死を得た最初の女性になると宣言し、何歳であったか忘れましたが遺伝子異常で不老不死を得られなかった天音を亡くし、90歳で不老不死を選べなかった、あるいは選ばなかった人たちが暮らす島、言ってみれば老人ホームなんですが、そこで17歳の時に生んだ息子と出会い、おそらくその時不老不死を捨てたんでしょう(どうやってかわからないけど)、132歳にして70歳前後の身体となり、海辺で成人した娘とその子どもと戯れてはいました。

この映画はその物語を語っているだけです。30歳はこうでした、ウン十歳の時はこうでした、90歳になりました、132歳で老女になりました、を見せているだけです。

リナ(芳根京子)には不老不死を得ることがどういうことかを考えた気配(シーン)もなく、悩んだ気配(シーン)もなく、90歳にして、自分よりも生きた時間の短い老人たちを前にして何を思うかのシーンもなく、自分が見捨てた息子と会っても何の思い(を見せるシーン)もなく、その息子の、おそらく死を意味しているのだと思いますが、船で出たまま帰ってこなかったとナレーションを入れるだけさらりと流し、突如132歳の老女となって登場し、なぜ不老不死を捨てたかの思いを語ることもなく終わっています。

答えのない問いだからこそ…

不老不死があり得ないことということは誰でもわかります。それでもそれが様々な創作物で描かれるということは、そこに人間にとって避けられない「死」というものがあるからです。

「死」とは何か、言い換えれば「生きることの意味」とは何かという問いは決して答えの出ることのない究極の問いです。

この映画のリナはその問いそのものの存在であるはずです。つまり、リナが「生きることの意味」を問い続けることを見せることこそ、こうした映画をつくる意味があるはずです。 

ケン・リュウ著『円弧(アーク)』 

原作は中国系アメリカ人ケン・リュウさんの短編『円弧(アーク)』です。

読んでみましょう。

ネタバレあらすじとちょいツッコミ 

もうあらすじを書いてしまったも同然ですが…。

リナ、17歳 

ベッドに横たわるリナ(芳根京子)、傍らには赤ん坊。リナはひとりでその場(病院のよう)を立ち去ります。

状況、理由等、一切わかりません。

リナ、19歳

クラブ、ダンスのショーをやっています。エマ(寺島しのぶ)がVIP席のようなところにいます。数人の群舞が終わり、リナが登場し踊ります。

このダンスの説明はちょっと難しいのですが(笑)、意図としてはこの子(リナ)は何かを持っているとエマが思うというつくりになっています。リナのダンスシーンはボディダブルだと思います。

翌日、リナはエマの名刺を頼りにエターニティ社を訪ねます。エマは遺体を生きていた状態を保持したまま希望のポーズで保存する「プラスティネーション」という施術のカリスマ的存在です。リナはその下で働くことになります。

このあたりのシーン、かなりチープです。

最初はハイテク技術をアナログ世界で見せる意図かなと思っていたのですが違いますね、予算なのか、センスなのか、特に深く考えている気配は感じられません。このエターニティ社のシーンも後半の老人ホームのシーンも同じ場所のようにも見えましたので予算ということかもしれません。

それにしても工夫が足りません。

で、よくわかりませんが、エマが解雇され、エターニティ社を去ります。エマの弟に天音(岡田将生)がいます。エマは去り際にリナに天音には近づかないでと言っていましたが、これもその後の流れに生きておらず意味不明です。また、エマもその後何シーンも登場しますが、なぜ解雇されたのかとか、その後なぜこんなに何シーンもあるかとかよくわかりません。出演の契約上かもしれません。

リナ、30歳

リナがエマのポジションになっています。

芳根京子さん、初めて見ました。良さを見せるシーンが与えられていないからかもしれませんが、17、19歳はともかく30歳のシーンはまず立ち姿、歩き姿がよくありません。ましてや90歳のシーン、いくら不老不死で30歳の身体のままだとしても、これは映画なんですからなにか工夫がいるでしょう。老人ホームのシーンで風吹ジュンさんに足音でわかると言われていたじゃないですか。

やはり演出に工夫がないからですね。

とにかく、エターニティ社は天音のもとで不老不死の技術(でいいのか?)を開発して一般に販売することになり、その第一号としてリナが初めて不老不死を得る女性となります。

これ、嘘ですね(笑)。リナは天音に臨床試験は済んでいるのなんて尋ねていました。

リナ、ウン十歳

リナと天音は不老不死を得て結婚しています。天音とリナはある島を訪れ、ここを不老不死を得ることができなかった人たちが暮らす場所にしようと話しています。

不老不死の技術は社会を二分すると天音は言います。ほとんど説明されませんが、費用の問題やある年齢以上では有効にならないことや自ら選択しないということのようです。

天音には遺伝子異常があり不老不死が得られておらず亡くなります。ただ、精子を冷凍保存しています。

リナ、90歳

このパートはモノクロ(白黒じゃなく何か色がついている感じ)になります。

リナは老人ホーム(という設定ではないけど)の医師として働いています。つまり、天音の予想通り、社会は二分され、不老不死を得られない人々がこの島に来ている(収容される?)ということです。

老夫婦の妻(風吹ジュン)が入所してきます。夫(小林薫)は近くに小屋を借りてそこで暮らしています。

このキャスティングでこの登場の仕方であれば、夫の方はリナが見捨てた子どもであることはすぐにわかります。

えー、またも日本映画の伝統、母子もので締めるのか?!と思いましたが、意外にもそこにはほとんどこだわることなく、泣かせようとすることもなく、極めてあっさりしていました。

これはこれでよかったのですが、ここはやはり身体的に年老いた自分の子どもを見て「死」とは何か、「生きることの意味」とはなにかを見せなくて何の映画か?!ということです。

そうそう、リナは天音の精子を人工授精してハルを生んでいます。

このパートは、やはり映画は俳優だということがよくわかります。風吹ジュンさんと小林薫さんの登場でやっと映画らしくなります。ここで芳根京子さんがその身体的若さでありながら90歳の存在感を感じさせることができていれば、それ以外のシーンはチープであってもこのシーンだけでいい映画になっていたんだろうと思います。

リナのナレーションで老夫婦の妻の死と夫が船で海に出たまま戻ってこなかったと入ります。

リナ、132歳

リナ(倍賞千恵子)は70歳くらいに見える老女となっています。娘のハルと孫とともに島で暮らしているようです。

経緯は一切説明されません。

リナがなにか決め台詞のようなことを語っていましたが記憶にありません。

演出の工夫が足りない

エターニティ社のシーンやクラブのシーンはとにかくチープです。

仮にそれが製作予算のせいだとしてもそれを逆手に取るなどの演出こそが監督や脚本や撮影の手腕でしょう。

この映画にはそれが決定的に欠けています。

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