これは村上春樹ワールドへのアンチテーゼかも?
「バーニング劇場版」なんていうタイトルですからテレビドラマの劇場版かと思いスルーしそうでした。イ・チャンドン監督の文字がふっと目に入り見逃さずにすみました。
劇場版の意味はすでに NHKで放映されたからという程度しか知らなかったのですが、エンドロールに何か所かNHKの文字がありましたのでググってみましたら、NHKの企画から立ち上がって制作された映画のようです。
ということは、今後も「アジアの映画監督が競作で村上春樹さん原作の短編の映像化に取り組」む映画が制作されるということで、「第二弾では日本の映画監督が村上さんの短編に挑み、(略)そして第三弾では中国の映画監督の参加も検討中」らしいです。
イ・チャンドン監督、すべて見ていますが、このブログには「ポエトリー アグネスの詩」しかありません。それ以来8年ぶりの新作です。
イ・チャンドン監督(の映画)から村上春樹をイメージするのはかなり難しいと思っていたのですが、村上春樹をシリアスにするとこうなるみたいに全く違和感がありません。うまいですね。
喪失、非存在…、村上春樹が書くとメタファー多用のなんともとらえどころのないファンタジーになってしまうものが、イ・チャンドン監督にかかると現代人の抱える孤独や自己喪失みたいなものがじわーと浮かび上がってきます。
ジョンス(ユ・アイン)は小説家志望ですが配送のアルバイトで暮らしています。その仕事中に幼馴染のヘミ(チョン・ジョンソ)に呼び止められ、その日飲みに行き、アフリカへ旅行に行くので旅行中猫に餌をやりに来てほしいと頼まれます。
後日、ヘミの元を訪ねますが、猫は見当たらず、ヘミは知らない人が来ると隠れてしまうのと言い、ジョンスをそれとなく誘いセックスします。
このシーンまででもう二つの非存在が使われています。ひとつは猫、ただこの猫はラスト近くで、実際にそうであるかは定かではありませんが、それらしき猫として出てきます。実際にヘミが猫を飼っていたかどうかは曖昧にされています。ジョンスが2回餌をやりに訪れるシーンがありますが、餌はなくなっているようですのでいるにはいるんでしょう。そしてもうひとつの非存在は、ヘミがパントマイムを習っており、飲んでいる時に、おもむろにみかんはないのにみかんを食べるしぐさをしつつ、「みかんがないことを忘れればいいの」と言います。
そこにないものを想像する時、あると思うのではなく、ないことを忘れるという、なんとも逆説的な表現で非存在の…じゃなくて、ヘミ自身の存在の不確かさみたいなものが暗示されています。
このふたりのセックスシーン、実にリアルです。生々しいというような意味ではなく、かなり現実的で、村上春樹のセックス描写とはずいぶん違う感じがします。
物語を進めますと、ヘミがアフリカにいっている間、ジョンスの周辺が語られます。父親は傷害事件を起こして起訴されており、性格はプライドが高く頑固のようで、後に実刑がくだされるシーンがあります。母親は十何年か前に失踪しており、ラスト近くに登場し、お金に困っているとジョンスにそれとなく訴えるシーンがあります。
父親が逮捕されたことで家には誰もいなくなり、牛(畜産で失敗したと言っていた)の世話のためにジョンスは家に戻ることにします。戻った早々、無言電話があり、その後も幾度か無言電話のシーンがあります。ちょっとつくり過ぎのシーンではありますが、おそらく母親からのものだったのでしょう。
このジョンスという人物、およそ村上春樹らしくなく、かなり映画的創作がされていると思います。多分、韓国の社会環境を反映させ描いているのでしょう。若者の就職難という話も聞きますし、後に出てくるベンという人物がなぜかわからないのに裕福な暮らしをしていることからも、格差の世代間連鎖を感じさせます。実際、ジョンスの戻る田舎は、日本のように過疎という感じはしませんが荒廃感があります。幼馴染であるヘミの家も今はなく、荒れ放題の空地になっています。
さらにジョンスの実家はパジュ、38度線を境にして北朝鮮と向かいあう町です。ジョンスの家のシーンでは北朝鮮からのアジテーション放送が流れています。もちろん、韓国側からも北朝鮮に向けて流しているわけです。
こういうところから村上春樹の小説には絶対にありえない現実感がうまれてきます。
ヘミから帰国すると連絡が入り、空港に迎えに行きますと、ヘミはベン(スティーブン・ユァン)という男性と一緒にいます。ナイロビ(だったかな?)空港で足止めをくった時に知り合ったと言います。
このベンという男のほうが村上春樹が書きそうな人物です。ポルシェに乗るかどうかは別にして、何をしているかわからない、ニヒルを気取る、料理をそつなくこなす、ジャズが好き、洒落た意味深なことをいうといった感じの男で、ジョンスと対照的な人物として登場します。
(わたしが読んだ)村上春樹の書く主人公の男(女はない?)はなぜか女性の方から寄ってくる(ベンのような)人物で、それに、なぜか皆女性の方から(象徴的な意味で)服を脱ぎます。その点では、ジョンスとヘミのセックスシーンも若干意識されているかもしれませんが、その後が全く違います。村上春樹の主人公は寝た女性に執着することはありませんが、ジョンスはヘミに執着していきます。
ベンとヘミの関係はほとんど描かれません。ヘミはジョンスに気持ちを残したまま、ベンにも惹かれているという描き方がされています。
映画はかなり長い割にははっきりした進展がありませんので記憶が入り混じっているかもしれませんが、ある日、ジョンスがヘミに呼ばれていってみますと、そこにはベンもいて、二人は付き合っている気配をさせています。ベンの家に誘われて行きますと、高級住宅街で、ジョンスやヘミの住まいとは大違い、モダン(かどうかは人による(笑))でよく整頓されています。ベンは手慣れた手付きでパスタ料理をつくります。このあたりは村上春樹っぽいです。
その後、三人はベンの仲間と合流し飲みに行きます。ベンの仲間ですから皆洒落た感じで遊び慣れているようです。
このシーン、うまいですね。もうひとつ後のジョンスの家でのシーンとともに、ヘミの、なにか得られないものを求めているような、それを得ようとして手を伸ばして取ろうとする先から崩れていくような、そんなヘミの心情が溢れ出るシーンです。
ヘミがひとりハイテンションでアフリカの話をしています。ジョンスはとにかく落ち着かない様子です。ベンたちは聞いている素振りですが全く興味なさそうです。そのうちベンが(ヘミがアフリカのダンスの話をしていたので)ここで踊ってみたらと水を向けます。ヘミが皆の前で踊ります。
何だか切ないシーンです。その後、ジョンスの家をヘミとベンが訪ねるシーンがもっと切ないのですが…。
ジョンスが牛の世話をしています。ヘミから電話があり、今ベンと一緒に近くにいるから行くと言います。ジョンスはあわてて着替えます。でもジャージです。
庭先で三人でワインを飲み、大麻を吸います。日が落ちてあたりがオレンジ色に染まります。ベンがカーステレオから音楽を流します。マイルス・デイヴィスの「死刑台のエレベーター」です。突然、ヘミが立ち上がり踊り始めます。ヘミは特別高揚したというわけでもないのに、上半身裸になり踊り続けます。
むちゃくちゃ美しいシーンで、涙ができてきます。
そして、(例によって)ヘミは消えてしまいます。
ああ、肝心なことを忘れています。ヘミが寝てしまい、ジョンスとベンがふたりになった時、ベンはジョンスに、自分は時々ビニールハウスを燃やしている(放火している)と告白します。そろそろ燃やしたくなっている、実はその下見に来たのだと語ります。 原作の「納屋を焼く」がビニールハウスに変えられているのでしょう。
ヘミはどこへ行ってしまったのか?
映画はある種サスペンスタッチではあるのですが、ことさらそれを強調しているわけでもなく、かなり単調(非難ではない)に進みます。
結局映画はそれに答を出していないのですが、いくつかの答をヒント、といいますか、それは映画的ネタであって、いずれであっても結局描きたいことはそれではないのだとは示しているのでしょうが、そのネタはおそらくこういうことです。
まず、ベンが殺したかどうかはわかりませんが何らかの手を下していること。
ジョンスはベンを疑い幾度も尾行します。ベンはそれを知ってか知らずか、ジョンスを家に招き、そこでジョンスはヘミがそこにいたという証拠をみつけます。
また、ジョンスがいくら探してもビニールハウスが焼かれた形跡はなかったにもかかわらず、ベンはもう焼いたと言っていたことからすれば、それはヘミを殺したという意味にもとれます。
この物語がすべてジョンスの語る「物語」であるということ。
ジョンスは小説を書いていると言いながら全くそのシーンがなく、ただ一度だけ、ヘミが失踪した後、ヘミのアパートの一室でパソコンに向かいニヤリとしながらキーボードを打つシーンを入れています。かなり唐突なシーンですので、あえてひとつの答として提示しているのでしょう。
そしてもうひとつ、ヘミが幼い頃の記憶として、家の近くの水のない井戸に落ちたことがあり、何時間も空を見上げて泣いていた、それをジョンスが助けてくれたと語ります。ジョンスには記憶がなく、まわりの人間に尋ねますがそんな井戸はなかったと言います。ただひとり、当然訪ねてきた母だけは井戸はあったと言います。
ヘミの絶望の表現であり、また、失踪した母のみその存在を確認する井戸ということからすれば、ヘミは自ら失踪、あるいは自殺したことを示しているのだと思います。
井戸、たしか村上春樹の何かの作品にあったような…。
どうとでも読み取れる映画、そのこと自体がかなり村上春樹的、パラレルワールドとまではいえないにしても、この世界の不確実性、非存在を現していいるように思えます。
そしてラストシーン、ジョンスはベンを呼び出し、ナイフでいくども刺して殺し、ベン(に象徴される)側の象徴であるポルシェにベンを押し込め、自らの衣服も車の中に脱ぎ捨て、火をつけて、裸のまま車を運転して去っていきます。
イ・チャンドン監督の村上春樹ワールドへのアンチテーゼでしょう。