グザヴィエ・ドランの転換点となるか
グザヴィエ・ドラン監督にとって、母親との関係は永遠のテーマなんでしょう。
デビュー作の「マイ・マザー(英題:I Killed My Mother)」に始まり、「Mommy/マミー」というそのものスバリのタイトルもありますし、その他ほとんどの作品に母親の影がちらついています。
この映画も母親との関係を軸にしたほとんど個的(パーソナル)な映画です。
つくりとしては、29歳の青年ジョン・F・ドノヴァンと11歳の少年ルパートの物語を、10年後に、21歳に成長したルパート自身が語るというスタイルをとっていますのでやや煩雑に感じますが、その三人ともにグザヴィエ・ドラン監督の分身と考えればわかりやすいかと思います。ジョン・F・ドノヴァンの死の真相が明かされるといったドラマのある映画ではありません。
11歳のルパートには監督自身の子どもの頃の思いが反映されているのでしょうし、21歳のルパートには映画監督としてデビューした頃のある種吹っ切れて自信に満ちた状態が、そして29歳のドノヴァンには年齢にかかわらず常に深層心理的に存在している自己破壊的な思いが反映されているのだと思います。
ですので、この映画、そうした重層的な映画の作りに反して、基本的には内省的で動きのない映画です。公式サイトのストーリーに何も書かれていないのもそれを現しているのでしょう。書くことがないのだと思います。
ただ、映画としてつまらないわけではありません。グザヴィエ・ドラン監督は、その二重構造的な構成もそうですが、映像的には極端なアップ映像の多用と巧みな編集処理でサスペンスの味わいをもたせ、音楽的にはガブリエル・ヤレドの弦楽中心の劇伴とポップス系の既存の曲を違和感なく、そしてタイミングよく使い、最後までまったく飽きさせません。
ですので、この映画は、で、どういう映画だった? と聞かれて、ん? えーと、そうだね、29歳の青年が精神的に不調をきたして…などと言葉に詰まりつつも、でも、おもしろかったよと言ってしまう、そういう映画です(笑)。
海外での批評があまりよくないのはそのあたりでしょう。
かなり苦労のあとが見受けられます。
そもそも21歳のルパート(ベン・シュネッツァー)がジャーナリストのオードリー(タンディ・ニュートン)にインタビューされ、ジョン・F・ドノヴァンと自分のことを語るという設定自体が奇妙です。すでにその内容を本にして出版しているから取材を受けているわけで、おそらくそのつじつま合わせでしょう、オードリーに、自分は政治記者で1時間後にどこかに飛ばなくてはいけない、なのであなたの本は読んでいないなんて言わせていました。そんなジャーナリストに本の内容すべてを説明するようなやさしいやつはいませんし、それはインタビューではありません(笑)。
ジョン・F(キット・ハリントン)を自殺するまで追い詰めていくことにも苦労しています。
人は仮に自殺を選択する場合でもこれといった明確な理由があるとは限りませんので実際にはこの映画のジョン・Fのようなことに違和感はありませんが、映画にしようとしますと、見る側が納得できるものを求めますので、どうしても何か理由付けをしなくてはならなくなります。
11歳のルパートとの文通を過剰にスキャンダラスに扱っているのもそのひとつでしょうし、撮影現場での暴行事件に絡んだマネージメント契約解消も妙に浮いたシーンでした。
キャスティングにも苦労しているのではないでしょうか。
11歳のルパートの母親サムをナタリー・ポートマンが演じていますがうまくいっていません。シナリオができていないのにキャスティングしてしまったのではないかと思います。主役級の俳優が演じる役ではないです。11歳のルパート(ジェイコブ・トレンブレイ)があれなら受けに回る俳優じゃないとバランスが悪いです。
ウィキペディアにある「本作は2018年5月に開催された第71回カンヌ国際映画祭でプレミア上映される予定だったが、ドラン監督が本作の出来映えに満足できず、再編集を望んだため取りやめとなった」との件もおそらくそうした様々な苦労からのことでしょう。
ドラン監督の映画には必ずでてくるセクシュアリティも永遠のテーマのようです。
映画の中で、ルパートが同級生たちにセクシュアリティについてからかわれ虐められるシーンが頻繁にでてきます。ドラン監督にそうした記憶があるのかもしれません。
ジョン・Fと母親グレース(スーザン・サランドン)との関係、互いに愛を感じ愛を求めあっているにもかかわらずうまくいかずぶつかり合うということにもジョン・Fのセクシュアリティが絡んでいるようにもみえます。グレースが酒の勢いに任せて饒舌になるのは日常何かを押さえ込んでいるからです。
ジョン・Fが自殺するのは2006年です。同性愛をカミングアウトすることのハードルは高いでしょう。撮影現場で暴行事件を起こすのも文通の件とともにセクシュアリティを揶揄されたからです。
考えてみれば、自分のセクシュアリティをカミングアウトするしないが問題されること自体が実に奇妙なことではあります。
10年後の2016年、インタビューを終えたルパートは、同性の恋人(多分)のバイクの後ろに乗り、カフェに残っているオードリーに恋人ともども手を振り走り去っていきます。
このラストシーンがグザヴィエ・ドラン監督の今(2016年あたり?)の心情を現しているものだとすれば、次回作はまた新しい何かを見せてくれるのではないかと思います。
「わたしはロランス」のような外に開かれた物語を期待しています。