宮本から君へ

70年代風劇画の影がちらつく男の恋愛妄想

真利子哲也監督ということだけで見に行った「宮本から君へ」、変わったタイトルだなあくらいの軽い気持ちだったんですが、見終わってみれば、こんなの今どき受けるのかなあという疑問と、個人的にはどことなくいやーな感じが残る映画でした。

宮本から君へ

宮本から君へ / 監督:真利子哲也

そんなことを考えながらエンドロールを見ていましたら「原作:新井英樹」のクレジット、ん? 誰だっけ、何か見た記憶が…と、このブログを検索してみましたら、「愛しのアイリーン」でした。

なーんだ、だからかと、「愛しのアイリーン」と同じようにいやーな感じを持ってしまった自分に思わず失笑が漏れてしまいました。

何にいやーな感じを受けるんでしょうね。

こういうことかと思います。原作漫画をまったく知らずにの前提なんですが、映画から感じるそもそもの物語のベースに、60年代、70年代風の劇画チックなストーリー運びを感じるからだと思います。そこにはその時代の男女観や愛情観も入るわけですが、男が必死になれば必ずその愛は女に伝わるという女の意志を無視した男の神話みたいなものがベースにあるような気がしてなりません。

それと暴力への無批判な憧憬的なものですね。もちろん、映画であれ漫画であれ、表現としての暴力描写がだめということではなく、たとえばこの映画で言えば、レイプは犯罪であり、殺人と同列に扱われるべきものだという認識があるかどうかということで、レイプを愛情次元で扱うべきではないという意味です。拓馬のことではありません。宮本の愛情を測るためにレイプを使っていると感じるからだと思います。

「愛しのアイリーン」で言えば、フィリピンからアイリーンをお金で買ってくる行為は犯罪であるという認識を持った上で表現がなされているかどうかということです。

初っ端から話が妙な方へいってしまいました(笑)。

で、あらためてどういう映画なんだろう、どういう原作なんだろうとざっとググってみましたら、そもそも原作は1990年から94年にかけて連載されたものらしく、じゃあこういう価値観もありかもしれない…え? でも、ドラマ化し映画化しているのは昨年から今年にかけてですね(笑)。

それに、いきなり本題に入っているなあとちょっとした違和感を感じながら見ていたんですが、ウィキペディアによれば、テレビドラマは前半、映画は後半というようなつくりと書かれています。

そんなことも知らずに見に行った私ですが、そのことはそれほど気にはなりません。登場人物の相関関係がわからない映画は珍しいわけではなく、いろいろ見ながら組み立てていくのも映画の楽しみですし、この程度の人間関係なら説明がなくとも理解可能です。ただ、それはいいのですが、時間軸のわかりにくさはもう少しなんとかならなかったのかとは思います。編集があまりよろしくありません。

前半である(らしい)テレビドラマのあらすじを読みますと、ほとんど宮本(池松壮亮)の営業マンとしての成長物語であるらしく、その意味では、映画版ではちらちらとしか出てこない上司や同僚はテレビドラマにはいなくてはならない人物なんですが、映画では宮本が仕事をしているシーンなどまったくありませんので、松山ケンイチや柄本時生のシーンなんてカットしたほうがスッキリするくらいです。

後半であるこの映画は、靖子(蒼井優)との恋愛話だけです。

ということは、この原作をテレビドラマと映画に分けるというのは企画段階からの計画ということになりますね。内容的にテレビではやれないということなのか、映画でも(製作レベルが)稼ぎたいと思ったということなのか、なんなんでしょうね。

確かに、映画は壮絶です。

時間軸にそって書いていきますと、まず靖子は遊び人のような男(井浦新)と別れるために宮本を利用します。ふたりで靖子の部屋にいる時に男がやってきて大混乱、その勢いで宮本は「この女は俺が守る」と絶叫、まさに絶叫してしまいます。それにやられちゃったのかよくわかりませんが靖子は宮本とつきあうようになります。

こういうところが70年代風劇画チックなんですよね。まあ言い方を変えれば、女性に人格を持たせていません。男に都合のいい女性しか出てきません。

ある日、宮本の得意先である真淵敬三(ピエール瀧)と飲むことになり、靖子も呼ばれます。

この真淵周辺の人物たちは異様すぎますね。宮本を孤立させるためかとは思いますが、この人物たち、裏を描けるほど人物描写されていませんので異様さだけが際立ちすぎています。特に真淵の部下の大野平八郎(佐藤二朗)、演技的には最高なんですがやり過ぎです(笑)。

とにかく、酔いつぶれた宮本と靖子は真淵の息子拓馬(一ノ瀬ワタル)に送ってもらい、普通は家の前でありがとうで終わりですが、映画ですので、部屋にあげてしまい、酔いつぶれた宮本が爆睡している間に靖子がレイプされてしまいます。翌朝、宮本がただならぬ様子の靖子を問いただしますと、お前は寝ていただけだ! 何も言う資格はない! と罵倒されます。 

ここから宮本の復讐が始まります。拓馬はラグビーで鍛えた体、宮本の二倍もあろうかという体格、どう考えても勝ち目はありません。でも宮本は立ち向かっていきます。一度目はボコボコにやられ、前歯を三本おられます。しかし、宮本はあきらめません。策を弄することなく、ただただ正面からぶつかろうとします。そして二度目、拓馬のアパートに押しかけ、無視されるも、翌朝まで非常階段で待ち続けます。そして、ついに自分も傷つきながらも拓馬をやっつけます。方法は股間狙いですね。

かなり壮絶です。こういうところが(青年漫画好きの)男に受けるのでしょう。

ただ、映画が描くのはプライドを傷つけられた男が、命を失うかも知れない覚悟でその無念さを晴らそうとする姿です。傷ついた女性のことなど眼中にありません。

それを現しているのが、格闘後、宮本は、股間を押さえ救急車救急車と叫ぶ拓馬を自転車に乗せて靖子のもとに向かい、靖子、俺はやったぞと、これまた叫ぶシーンです。

この映画(物語)は、さらに靖子に苦難を覆いかぶせます。妊娠しているのです。父親が元カレの遊び人の男なのか宮本なのかわかりません。

しかし、映画はそのことを靖子の問題として描いていません。靖子の意志や判断をほとんど描こうとしていないということです。遊び人の男が宮本に、台詞は忘れてしまいましたが、どちらの子か悩むがいいといった意味のことを言ったり、宮本の苦しみとして描いているのです。

宮本は靖子に結婚を申し込みます。そのシーンはなかったように思いますが、お互いの両親に会いに行くシーンで見せていました。

映画的にはこのくだりはおまけなんですが、かなり早い段階でそのシーンを挿入することでおまけ感はありません。ただ最初に書きましたように編集がわかりにくく時間軸が混乱します。

という、映画の価値観としてはどうかと思いますが、池松壮亮さんと蒼井優さんはともにこれまでの印象とは違った面が見られとても良かったです。特に蒼井優さんは今後かなり役柄の幅が広がるのではないかと思います。

真利子哲也監督、「NINIFUNI」「ディストラクション・ベイビーズ」と見てきた印象で言えば、こんな物語じゃないものを見せてほしいとは思いますが、力のあることはよくわかる映画ではありました。

NINIFUNI

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