そもそも監督が「銃」や「西川」に興味を持っていないのでは?
原作を読んでいませんが、映画を見ての想像で言えば、人は常に今(の自分)から抜け出したいとの欲望を持つものであり、ある時、その契機となりうる何ものか(銃)に出会えば、割と簡単にその境界を越えてしまうという物語なんだろうと思います。
そうだとすれば、この映画は、そのテーマは語られてはいますが、映画として描かれていないということになります。
早い話、言葉での説明過剰ということです。
頻繁に、西川(村上虹郎)の心の声がモノローグのようにかぶさります。はっきりいって邪魔くさいですし、その内面を映画が描かなくてどうするんだ?ということです。
西川は、ある雨の夜、近くの河原で拳銃を拾います。冒頭の映像でははっきりわかりませんでしたが、その横に男が倒れていたようです。
男のことは、後にテレビからニュースが流れるか、新聞の映像があったんですが、西川自体が男が倒れていたことなど気にする様子もなく、画も男を見せようとしていませんでしたので、そのことからも映画全体が現実感の乏しいものになっています。
で、西川は拳銃を部屋に持ち帰り、なんだかそれ用に用意されたような箱にしまっていました。もともと入っていたものをぶっちゃけていましたが、あれ、何が入っていたんでしょうか? どうでもいいことなんですが、最初から拳銃を入れるように用意されていたように感じたもので…(笑)。
このシーン、あんなあっさりでいいでんすかね? 男が倒れているその横に落ちていた拳銃を拾ってきて、サッサッと布で雨を拭って、ぽいと箱にしまってしまう(ような印象)なんて、これからその拳銃が軸で物語が進み、おそらく西川を支配していくようなものになると思われる「銃」なのに、あんな扱いじゃ、映画が深まらないと思います。
西川は学生です。友人に誘われ2対2の合コンに参加します。その友人の会話は、その後、2,3度登場しますが、すべて、女とやるやらないやったなどという話で見ていてうんざりします。
西川自体は、そうした会話に積極的であるかどうかはかなり曖昧なんですが、その合コンで知り合った女性(日南響子)とその日すぐにセックスとなり、その後、友人に、やらせてくれただのやらなきゃ損だだのと語りますし、そもそもその女性を「トースト女」と呼んでいたと思います。
映画ですから、こうしたシーンや表現をいいの悪いのと言いたいわけではなく、映画として生きていない描き方だと感じるいうことで、つまり、そうした描き方が西川の人物像をふくらませることに何ら寄与していないということです。
この映画は、「銃」によって西川の狂気が呼び覚まされていく物語であり、その狂気が誰にでもあるものなのか、個人の素質によるものなのかまで迫るかどうかは置いておいても、少なくとも西川の場合、母親に捨てられた幼少時代の屈折した心理と絡みあっているらしく、であるがゆえに、その狂気が特に「女」に向いていくということなんだろうと思います。
そうした関連がまったく見えないということです。
くどいようですが原作読んでいません(笑)。
もうひとり女性が登場します。同級生のユウコ(広瀬アリス)です。このユウコの存在も西川の人物像にまるで絡んできません。
モノローグで、「あることを思いついた、この娘とは本物の恋愛を演じよう(適当に私が作ったけどそういう意味)」みたいなナレーションを入れていましたが、で、それがその後にどう絡んでいたの?ということです。
なぜなんでしょうね? なぜこう感じたんでしょうね?
村上虹郎くんは、「ディストラクション・ベイビーズ」で見て以来注目している俳優さんで、どこか危なっかしいところがあり、こういう役柄にはぴったりだと思うんですが、まったくダメでした。
監督が、村上虹郎くんを活かしきれていないんじゃないかと思います。冒頭の拳銃を持ち帰ったアパートのシーンでも、「俺はこの銃に引き込まれた(適当に作った(笑))」なんてモノローグを入れるんじゃなく、もっとじっくりと撮って、拳銃をじっと見つめたり、撫で回したり、きらりと光る眼を撮ったりすべきじゃないかと思います。
ただ、正直、村上虹郎くんが活きるのは脇役で主役じゃないかもとも思います。
で、映画ですが、アパートの隣に子どもを虐待している女性が引っ越してきます。毎日のように、薄い壁を通して怒鳴り声や殴る音が聞こえます。
西川は、ステレオ(死語?)の音を大きくします。ああ、音楽も良くなかったですね。この場面の曲がどうこうではなく全体にです。それに、あの程度大きくしても、拒絶している感は出ないです。そもそも隣の音に対して西川の感情が動いているようには見えません。
あれ、演出なんでしょうかね? 現実に対して感情の動きがない人物という演出なんでしょうか? もしそうなら、女性たちへの対し方も含め、村上虹郎くんの演技も理解できます。
ただ、失敗ですけどね。ああ、それに2度ほど吐かせていました。わからないなあ、この西川…(笑)。
西川は幼い頃に母親に捨てられ孤児院にあずけられた設定で、本人が虐待を受けていたかどうかはわかりませんが、それと重ね合わせるという映画の作りなんでしょう、その隣の女性を待ち伏せして拳銃で殺そうと計画します。
しかし、拳銃を構え、引き金を引こうとしますが引けません。このシーンだけは無茶苦茶感情を発露させていました。その後のラストの結末を考えればちょっとばかり違和感があります。
ラストです。西川が電車に乗っています。隣に、煙草を吸うわ、大きな声で電話をするわの傍若無人な男が乗ってきます。しばらく無視していた西川ですが、突然、うるさい(みたいだけど違う)と怒鳴り、その男の口に拳銃をぶち込み引き金を引きます。
血の海の中、西川は、自らのこめかみを撃とうとしますが、その銃槍に弾はなく、リボルバーのクルクル(何ていうの?)を開けて弾を入れようとしますが、血みどろの手からは何度入れようとしても弾が滑り落ちてしまいます。
このシーンも無茶苦茶感情が発露されていました。
これは、監督がそもそも「銃」や「西川」に興味持っていないか、村上虹郎くんが素の存在感で持たせるタイプの中間のない俳優さんか、そのどちらかですね。