アメリカの高校で起きた銃乱射事件から6年、被害者と加害者の両親が対面で話をするという映画です。監督のフラン・クランツさんは俳優として二十数年のキャリアがある方で、この映画が脚本も含め監督デビュー作ということです。
デビュー作にこの題材…
デビュー作にこの題材を選んだことにまず驚きます。きっと長いあいだ温めてきたものなんでしょう。
銃乱射事件で犠牲となった子どもの両親と加害者であり自殺した少年の両親が4人だけで話をするという内容です。当然、台詞劇になります。シナリオもフラン・クランツ監督のものです。
犠牲者や加害者の子どもたちを15,6歳としますと、それぞれにその年数の人生を考え、事件にいたる過程に何があり、事件のその日何が起き、その後現在まで何があったか、映画のシーンには直接現れないかも知れないそれらのことをすべて組み立て、その上で4人の登場人物の人物像を作り上げて、その人物が何を考え、何を心に留めて、何を語るかを考えなくちゃいけません。
シナリオを書くということは多かれ少なかれそうした作業がなされるのでしょうが、それにしてもこの題材をこのレベルに作り上げたのはすごいです。
映画のつくりもシンプルでうまい…
映画の9割方、上の画像の教会内の一室で進行します。人物の動きはせいぜい立ち上がって移動して座る場所を変えるくらいで部屋から出ることもありません。ほとんどのカットが座った人物のバストショットで時に顔のアップが入るくらいです。
それでも最後まで緊張感を持続させていました(正直、ちょっと飽きたけど…)。シナリオだけではなく映画のつくりも的確ということです。
この4人のシーンに入る前の導入がまたうまいんです。教会の外景から入り、ひとりの女性が車でやってきて両手に荷物を抱えて入っていきます。礼拝堂ではオルガンが響いています。誰かが子どもに教えているようです。女性は椅子に座り礼拝をし(多分…)奥に入っていきます。
このオルガンがなんとも気に障るんです。緊張感を高めるためのひとつの手でしょう。さらにその女性本人が緊張して落ち着かない素振りで喋りまくり動き回るのです。教会のフタッフです。もうひとりの若い男性に声をかけ部屋の準備をします。テーブルを出し、椅子をセットします。
この面会をセッティングしたカウンセラーがやってきます。カウンセラーは終始冷静で、あれこれ気を使うスタッフと対比させています。対比させることでスタッフの過剰さを見せつけ、見る者をいらいらさせようとしています。そのための小道具として椅子の位置やティッシュや飲みものや食べものが使われています。スタッフが抱えて持ってきたのはその飲みものや食べものです。
シンプルな手ですがうまいです。
そして、犠牲者の両親ジェイ(ジェイソン・アイザックス)とゲイル(マーサ・プリンプトン)がやってきます。この面会はカウンセラーのすすめでふたりが望んだことです。
そして、加害者の両親リチャード(リード・バーニー)とリンダ(アン・ダウト)が部屋に入ってきます。
ミサ、聖公会…
原題は「Mass」、ミサなんです。邦題の「対峙」ではまずかったんじゃないのと気になって、漠然と祈りくらいにしか理解していない「ミサ」ってなんだろうとウィキペディアを読んでみたんですが、厳密には「カトリック教会における聖体の秘跡にかかる典礼だけを指す」言葉だそうです。そうした厳密な意味合いではなさそうですが、いろいろな意味合いを暗示させているのでしょう。
なお、この教会は聖公会の教会であると、わざわざラストシーンで明示していました。どういう意味があるんでしょうね…。
で、本編ともいえる4人の面会ですが、話されることはおおよそ予想できるものです。いやいや、内容はまったく予想できるものではありませんが、犠牲者の両親は、冷静に冷静にと思いながらも、それでも時には爆発して相手を責め、そうした自分を後悔し、子どものことを思い出しては涙するでしょうし、加害者の両親は、責められて当然とは思いながらも、その苦しさに時にはその思いを吐露したくなるでしょう、自分の子どもも亡くなっていることも理解してほしくなるでしょう。
という大枠は予想できるが、それを言葉にし、会話にしていく難しさは並大抵のものじゃないということです。
そして、この映画が奇を衒ったものでなければ、当然最後には癒やしの瞬間がおとずれます。ましてや場所は教会です。
ねらいは何なんだろう…
で、予想通り、癒やしの瞬間が訪れ、そして聖歌隊の賛美歌が流れます。
ウィキペディアにある「ミサ」の語源や神学の学説部分を読みますと、フラン・クランツ監督がこの映画をなぜ「Mass」とし、さらにわざわざ「聖公会」と明示したのかが気になって仕方ありません。
気になるだけでわかりません(笑)。
ひとつだけ失敗があります。中ほどでビスタサイズから黒味にし、シネスコサイズに変えているのですが、元のサイズがビスタですのでシネスコにすれば逆にこじんまりとしてしまいます。何をねらったかはわかりませんが、映像をワイドにしたかったのだとすればシネスコサイズで撮らなければ無理です。でもそんな素人のようなことはわかっているでしょうから、失敗ではなくあれでよかったということかも知れません。
もうひとつ気になることが…。どちらの夫婦も男女の精神的な役割が主従で固定化しています。