原作は吉本ばなな『N・P』、監督はベルギーを拠点に活動する映像作家リサ・スピリアールト、内容はサイレント映画。
どんな映画なんだろうと、期待は膨らんだのですが…。
何をやりたかったのだろう…
リサ・スピリアールト監督が、吉本ばななさんの原作を原語で読んだのか、英訳で読んだのか、フランス語訳かドイツ語訳がでているとすればそれを読んだのかわかりませんが、原作から何を感じ、この映像作品で何を表現しようとしたのかがよく見えません。
そもそもの物語は置いておいて、この映画では、登場人物の行動(動き)がごく普通に映画として撮られています。その人物たちは会話もします。しかし、音声は消されています。代わりに、なのかどうかもよくわかりませんが、自然音やノイズ、いわゆるSEがうすく流れています。ときどき原作の文章(だと思う)が字幕としてその画にかぶってきます。いわゆる映画字幕のような人物の台詞ではありません。また、ときどき背景に画はない状態で文字だけがワンセンテンスずつ数行表示されたりすることもあります。おそらくそれも原作からのものでしょう。
映像スタイルとしては見たことのないものです。
劇中、台詞は聞こえない。俳優たちには物語のメモを渡し、自分たちの言葉で解釈して自由に話をさせながら撮影。その後、映像を無音にし、状況音とノイズミュージックを後付けして、字幕とインタータイトルで物語るという独自の手法がとられている。
(公式サイト)
ということのようです。
が、その手法をもって、リサ・スピリアールト監督が何を表現しようとしたのか、何を目指したのかがよくわかりません。この状態で公開しているということは、これで制作の目的を達成しているということになりますので、リサ・スピリアールト監督には何かが見えているのだとは思いますが、私には、映像作品として何を狙ったのかもわかりません。
言葉を排除して、言葉に頼る
映像自体は、断片的ではありますが、物語を語っています。登場人物たちもそのように動いているようです。しかし、無音にしているわけですから言葉をいらないものとして排除しているということです。言葉に頼らないと言っているわけです。なのに、字幕といっていいのかよくわかりませんが、言葉を使って説明しようとしています。
これがよくわかりません。
人物たちは言葉でもって物語を語っているのに、その言葉を拒否するのであれば、言葉で説明せず、そもそも画だけで物語を語る画を撮ればいいんじゃないかと思います。
やろうとしていることがちぐはぐに見えます。
言葉に向き合うべきではないか
物語は、作中作である『N・P』という97話の英文の短編を残して自殺した高瀬皿男の子どもたち3人と「私」である加納風美をめぐるひと夏の物語です。風美は高校生の頃に『N・P』を翻訳していた庄司と付き合っていたのですがその庄司も自殺しています。皿男の3人の子どもは、双子の兄妹の高瀬乙彦と高瀬咲、そして二人とは母違いの姉になる箕輪翠です。翠は過去に皿男と近親相姦の関係にあり、また現在は乙彦と関係をもっています。
これだけですと、ドロドロしたすごい話のように思いますが、吉本ばななさんですので、それらは過去の話として全体としてはふわっとした夏の話だったと思います。
さすがにおぼろげにしか記憶もありませんのでもう一度読んでみようかとは思いますが、吉本ばななさんの作品は、全般的にですが、言葉を排除するのではなく、きっちり言葉に向き合って映像化すべき原作だと思います。