PLAN 75

日本じゃ安楽死も集団で…という近未来ディストピア

今年2022年のカンヌ映画祭「ある視点」部門でカメラドールのスペシャルメンションに選ばれた作品です。カメラドール受賞を争ったという意味でしょう。

早川千絵監督の長編デビュー作で、2018年のオムニバス映画「十年 Ten Years Japan」の一編をあらためて長編として制作したものとのことです。その「十年 Ten Years Japan」は、2017年に香港で制作された5篇のオムニバス映画「十年」に触発されて、エグゼクティブ・プロデューサーに是枝裕和監督を迎えて製作された映画です。

PLAN75 / 監督:早川千絵

リアルなディストピア

映画の内容はそのタイトルからも想像できるとおり、75歳になれば自ら死を選択できる、いわゆる安楽死が国の制度として存在する近未来の日本の物語です。

冒頭、何やら銃声らしき音がしてアウトフォーカスの映像が続きます。しばらくしてシルエット気味にライフル銃を抱えた男が登場します。予想していた雰囲気とかけ離れていましたのでなんだろう? と思いましたら、若者が自分の不遇は高齢者がいるからだと考えて殺害に及んだということでした。ニュースの音声として、最近若者が高齢者を襲う事件が頻繁に起きていること、そしてPLAN75という75歳になれば安楽死を選択でき、国家がそれを実施することができるとの法案が成立したと流れます。

という導入があり、そのPLAN75が施行された近未来の日本です。

78歳のミチ(倍賞千恵子)を軸に映画は進みます。ミチは結婚の経歴もありますが子どもを亡くしており身寄りがありません。一人暮らしでホテルの客室清掃の仕事をしています。同じ年代の数人とそれなりに楽しく過ごしていますが、ある時、高齢者を働かせているとの苦情がきたからとの口実で解雇されます。蓄えもなく、次なる仕事を探さざるを得ませんが仕事は見つからず、住居も退去しなくちゃいけない(という意味だと思うがよくわからない)にもかかわらず高齢ゆえに見つかりません。

ミチはPLAN75の道を選びます。PLAN75を選択しますと国から10万円が支給され、チャットサービスも提供されます。ミチはチャットサービスの担当者の瑶子(河合優実)と話すうちに直接会えないかと申し出ます。直接の面会は禁止されていますが瑤子は受け入れ、お茶をしたり、ボーリングをしたりと楽しく過ごします。瑤子は自分の仕事に迷いを感じているということでしょう。

ということでPLAN75のその日になるわけですが、その前に、この映画にはもうふたつサブ的な軸があります。PLAN75を提供する側(多分役人)のヒロム(磯村勇斗)の物語と介護士としてフィリピンからきているマリア(ステファニー・アリアン )の物語です。

ヒロムはPLAN75を申し込みにきた男が自分の叔父であることに気づきます。叔父はヒロムの父とは反りがあわなかったのか何十年も音信不通状態だったようです。ヒロムは叔父の選択を止めようとするわけではありませんが、どこかしっくりこないことを感じているようで、その後、叔父を訪ねて話をするようになっていきます。そしてPLAN75の日です。

マリアはフィリピンに夫と子どもを置いて働きに来ています。子どもには心臓の病があり手術のためにお金が必要です。マリアはより給料のいいPLAN75の仕事に移ります。処置が済んだ後のあと処理なんでしょう、シーンとしては個人の私物を仕分けするシーンで、同僚がその私物をくすね、またマリアにもブレスレットを持っていけと渡し、マリアもそれを自分のものにするというシーンがあります。そしてミチやヒロムの叔父のPLAN75の日です。

ミチとヒロムの叔父が酸素マスクのようなマスクをされて横たわっています。気体が流れてきて眠くなりますと声が入ります。二人が互いに見つめ合うカットがあり、ヒロムの叔父のまぶたが閉じていきます。ミチの目はかっと見開かれたままです。

叔父を車で送り届けて戻る途中のヒロムが突然UターンしてPLAN75の施設に戻ります。ヒロムの叔父はすでに死んでいます。ヒロムはマリアの手伝いを得て叔父を車に乗せて走り出し、火葬場に空きはないかと電話をしています。ミチはマスクを外し施設を抜け出します。マリアは処置の後のあと処理を続け誰かの私物の中の現金を見つけます。

抜け出したミチが夕日を見つめています。

まじめさは伝わってくるが…

ということで、この映画は近未来ディストピアなのに登場人物たち全員が極めて現実的な悲しみをたたえているという映画です。その理由は、描かれていることがまさしく現実の延長線上に想像できてしまうからでしょう。

その意味ではとても真面目な映画です。

その上での話ですが、映画の出来としてはあまりよくありません。中途半端なシーンが多いですし、突っ込みが足りません。こうしたつくられたドラマは真面目さだけでは映画になりません。ドラマとしての面白さが必要です。是枝裕和監督の映画を見るとよくわかります。たとえば「万引き家族」という映画は、ありえない家族という面白さを見せつつ社会問題を語っています。もちろん是枝監督のうまさはそれだけではありませんが、少なくともつくられたドラマには何らかの新鮮さという面白さが必要です。

この映画は現実ではないディストピアなのに、人物がみな現実的でなおかつ想像できる範囲内に存在しています。ヒロムの迷いもそうですし、瑤子の同情もそうですし、マリアの行動も多くのドラマで使われてきたパターンです。

倍賞千恵子さんひとりを軸にしてもっと深く追い続けるという方が映画になったように思います。

言葉としては嫌な言い方になりますが、この出来の映画を撮ることができる映画制作者はたくさんいます。せっかく掴んだチャンスですので次はさらによい映画を撮ってほしいと思います。

日本では安楽死も集団で…

あえてこの映画には安楽死という言葉を使いますが、75歳になったら安楽死を選択できる法律ができるなんてあまりにも日本っぽくってびっくりします。ですので、本当はこの映画がテーマとすべきは個々人の悲しみではなく、なぜその法律が出来たかという点じゃないかと思います。

海外の映画には尊厳死を描いたものががたくさんあります。当然ながらどの映画も個人の選択として尊厳死を描いています。もちろん尊厳死を認めている国もあるという現実がベースになってはいますが、おそらくこの映画のように国の施策として積極的に安楽死を勧めるという、その発想自体が日本でしか生まれないでしょうし、その意味ではまさにありえないディストピアとして受け止められたのかもしれません。