松山ケンイチさんの映画としか言いようがない
この映画、松山ケンイチさんのそこまでやるか?!につきます。
「BLUE/ブルー」ではボクサーらしい身体に絞りきっていましたが、こちらは20kg増らしいです。その「BLUE/ブルー」を見た際に見ていないことを思い出し見てみました。
不思議の世界、将棋界
将棋って、さほど競技(じゃないのかな?)人口が多いとも思えないのに新聞には必ずそのページがあり、タイトル戦になりますとそれなりに注目度も上がり、藤井くんのようなスターが現れますとその話題に持ちきりになります。
タイトル戦の主催が新聞各社ということからその露出度が上がるということなんでしょうが、その点では野球と似たところがあるのかも知れません。新聞購読数を増やすためのアイテムだった過去を持つということです。その意味では競技人口は少なく(将棋の場合)見えても割と裾野は広いのかも知れません。
もうひとつ不思議なのは男女差の大きさです。その理由で素人が思いつくのは競技人口の差ということですが、さらにその差の理由を考えますと、将棋が戦争のシミュレーションだからではないかと思います。
この映画の中でも村上と羽生の会話に出てきますが、なぜ将棋をやっているのかの問に「負けたくない」からという答えが決め台詞のようになっています。駒の名前からして戦争そのものですし、戦争が男の仕事であったように将棋も男のものだったということでしょう。戦争では負けは死を意味しますから、そりゃ負けたくないですよね。
話がとんでもない方へいってしまいました(笑)。
松山ケンイチであることを忘れる
個人的価値観としては極端な体重の増減までして役に挑むことに大きな意味を感じませんし、あくまでもキャスティングで解決することであり、違和感がない程度の身体的特徴にとどめて後は演技の問題ではないかと思っていますが、この松山ケンイチさんに関しては意味のあることと認めざるを得ないです。
この映画の村上は松山ケンイチさんじゃないです。実在した村上聖さんであるかどうかはわかりませんが、少なくとも完全に映画の中の村上聖です。
かなり抑えられてはいますがこの映画の基本は感動ものですので、この松山ケンイチさんが村上でなかったなら他の方法を駆使してベタに盛り上げるなどの方法を取らざるを得なかったと思います。
村上聖になりきるというよりも、松山ケンイチさんがある時期村上聖として生きたということでしょう。
演じるという点で対照的なのが羽生を演じた東出昌大さんです。村上聖さんに比べれば羽生善治さんの露出は桁違いですし、その立ち振舞自体が映像として世に出ています。どうしてもその特徴的な動きを取り入れざるを得ず、見ていても、ああ、やっていますねという印象が拭えません。それはある意味演技とは別物ですので東出さんもかなり大変だったのではないかと思います。それをやらなきゃ、羽生さんじゃないねなんて言われてしまいます。
ネタバレあらすじとちょいツッコミ
1994年春、大阪、早朝、自営業を営む男が家から道路に出てきますと、男が倒れています。救急車を呼ぼうとしますが、男は将棋会館へ連れて行ってくれと頼みます。
男は村上聖(松山ケンイチ)24歳、担ぎ込まれた将棋会館では対戦相手が待ち構えており、対戦が始まります。竜王戦です。
ちょっと中途半端なファーストシーンです。要はオープニングらしくなく、途中から始まったような印象を受けるということです。それに聖が担ぎ込まれたことと周りの何もない(なかったかの)ような空気の落差が大きすぎて、え? 何が起きているの? という感じになります。
聖の七段昇進パーティーの日、後輩(かな?)の江川(染谷将太)が迎えに来ますが、聖は少女漫画に夢中です。江川はその日の新聞を読み、羽生が名人位を取り五冠となったこととその記事には西の怪童として村上聖の名前が上がっていることを伝えます。
パーティー会場、師匠の森(リリー・フランキー)がスピーチをしています。続いて聖のスピーチ、森の人の良さや裏表のなさから、師匠でありながら聖の面倒をみている様子が見て取れます。
聖と羽生(東出昌大)の対戦、聖の負けです。
聖の子どもの頃のフラッシュバック、病院、母親(竹下景子)が医師から聖がネフローゼであり、なぜもっと早く来なかったのかと責められています。続いて、入院シーン、父親が聖に将棋を買い与え、それが将棋を始めるきっかけになったということです。
聖は東京に行くことになります。母親と森が引っ越しのために荷物を整理しています。子どもの頃の駒が出てきます。森がまだ大切にしているんだなあと感慨深げです。
批判するつもりで書いているわけではありませんが、こうしてあらためて整理してみますと段取りで進んでいますね(笑)。それに、買い与えた父親ならまだしも師匠の森の台詞ではないでしょう。
東京へ移る前に行きつけの本屋に寄ります。聖は本屋の女性に恋心を感じています。ただ、何も言えません。
東京では業界紙(かな?)の編集長(かな?)の橋口が面倒をみることになります。
ところで、この映画には原作がありますが、この樋口はその作者の大崎善生がモデルということです。
東京での部屋探し、聖のキャラをみせるシーンが続きます。向かいが墓地のところでは墓はいやですと言い、階段はだめだと言い、そしてカメラ付きインターフォンでは橋口に似合わないよと言われて、こんなところに住みたかったと言って決めながら、次のシーンでは山積みのダンボールに囲まれながらカップ麺をすすっています。
東京の生活が始まります。いろいろな人物を配置して聖の人物像を浮かび上がらせるようになっています。何かと聖とぶつかる荒崎(柄本時生)、その間に入る仲裁役の橘(安田顕)らです。
仲間との交流や対戦が続きます。ときどき羽生も登場しますが、聖のライバルとのポジションですので映画としても別格の扱いです。
羽生が七冠を達成します。
聖が路上で倒れます。膀胱がんを宣告されます。
橘のA級残留がかかった対戦で聖が勝つことで負けることの悲哀が描かれ、感想戦をせず席を立つなど聖にはそのつらさがよくわかっているようです。
聖が寝込んでいます。電話にも出ず留守電のメッセージも消してしまいます。ペットボトルを尿瓶代わりにしています。ふらりと大阪に戻ります。ひとりでフラフラと歩き、本屋さんに立ち寄ります。親しく話しかけてくれる女性ですが何も言えず立ち去ってしまいます。
聖が大阪へ戻ったのは後輩の江川の奨励会年齢制限最後の対戦のためでした。江川は破れて奨励会退会となります。その夜師匠と江川ともに飲みに行き、江川を負け犬だと罵倒し殴り合いの喧嘩になります。
聖と羽生の対戦です。聖が、藤井くんのAI越えの一手ような(よくわからない)手で勝ちます。その夜、聖は羽生を飲みに誘います。一方的に聖が話すパターンで、最後に聖がなぜ僕たちは将棋を選んだんでしょう?と尋ねますと、羽生は今日あなたに負けて死ぬほど悔しいと答え、聖が負けたくないと返します。そして、聖が羽生さんの見ている海はみんなと違うと言いますと、羽生は深く潜りすぎてこのまま戻れなくなるのではないかと思うことがある、村上さん、一緒にそこまで行きましょうと言います。
医師から膀胱がんがステージ3Bに進行していると宣告されます。手術しなければ余命3ヶ月、手術しても1年は将棋はできないと言われます。聖は麻酔しなければ手術してもいいと言います。麻酔すれば脳が弱って将棋が弱くなると言っています。
そして聖はA級から陥落します(なのかな?よくわからない)。そして手術します。それにより逆につかの間の、そして先のないつらい家族団らんの日が訪れます。
羽生との最後の対戦です。看護師帯同です。対戦は聖の勝ちと思われたにもかかわらず、最後の最後、羽生との約束のあの深くて戻れないかも知れない海の底まで行きながら、聖の集中力が切れたのか聖の負けで終わります。
1998年8月8日、村上聖、29歳で亡くなります。死後、九段が贈られます。
映画としては凡庸
批判の意味ではなく映画としては凡庸です。
まだまだ過去の人になりきれない亡くなった人を描く方法はこの映画のようにごくシンプルに描くしかないと思います。
いずれにしても松山ケンイチさんの映画でした。