看板の裏表と人間の裏表
今日の今日までハリウッド、少なくともアメリカ映画だと思いこんでいました。それゆえDVDでいいやとスルーしていたのを「ノマドランド」を見たことから、そういえばと思い出して見てみましたら、こんな映画だったの?! とびっくりした次第です。
オチなしじゃん!
娘を殺された主人公が犯人が捕まらないことに業を煮やして警察署長を糾弾する看板をあげることから始まるのに犯人はわからないままで終わりますし、その主人公の敵かと思われた警察署長はがんを患っていることから妻に負担をかけたくないと自殺してしまいますし、主人公にあからさまに敵対してくるレイシストの警官はクビになってしまう上にラストでは互いに気持ちが通じ合ったかのように主人公と行動を共にすることになりますし、どうなってんの、この映画? という映画でした(笑)。
アメリカ映画であればあり得ない展開ですが、それもそのはず、脚本、監督はイギリスやアイルランドで活躍する舞台演出家のマーティン・マクドナーさんという方でした。ただ、ウィキペディアによれば、本人は演劇より映画のほうが自分に合っているようなことを言っているそうです。
でもやっぱりこの手のクライム系の映画としては異質ですし、物語の展開の仕方が舞台劇っぽいと言えばそう言えなくもありません。
特に中盤で重要人物を殺してしまい一気に流れを変化させるところや物語よりも人物描写に重点を置いているところなどはそう感じます。
それだけに面白い映画です。
登場人物みなディスコミュニケーション
この映画の登場人物はみなディスコミュニケーション状態で相互理解し合うような人物ではありません。
主人公のミルドレッドは警察署長やレイシスト警官に怒りをぶつけ悪態をつきまくります。元夫とも互いに嘲笑し合うばかりですし、息子とさえわかり合おうという気もありません。
警察署長は敵対してくるミルドレッドにさえ優しさをみせる人物ではありますが、言い訳がましく自分はがんだから赦してと言うばかりですし、妻に負担をかけたくないと妻の意志を無視してひとり先に逝ってしまいます。
レイシスト警官にいたれば差別用語連発で警察官でありながら正義のかけらもありませんし、さらに上をいく母親との間にもまともな会話など成り立つ気配もありません。
ラスト、やっとミルドレッドと元レイシスト警官のふたりに何らかの思いが通じ合ったかと思えば、なんと、それもレイプ犯(と勝手にふたりが思う)を殺しにいこうとするわけです。
警察署長の遺書が実に爽やかにこれぞ正義と言うがごとくナレーションで流れますが、ほぼすべて空回りに近く、身勝手な自殺に妻は絶望的な孤独感を味わうことになりますし、ミルドレッドにしてみれば娘を殺した犯人が見つからないことには何の癒やしにもならず、簡単にレイシスト警官の誘いに乗ろうとしますし、そのレイシスト警官にしても後悔先に立たずで警察署長のアドバイスなどすでに遅きに失し、怒りのはけ口を外に(何の確証もなくレイプ犯と決めつけた見知らぬ男に)向けようとするだけという、何とも笑えないブラックさに満ちた映画です。
殺伐たる人間たちの映画です。
ストーリーのない暴力
この映画で描かれる暴力にはその行為をする人物にストーリーがありません。言ってみればキレるってやつです。
そもそもミルドレッドの娘がレイプされ焼き殺されたという暴力自体がまったく描かれることはありませんし、そのことはほとんど映画の主題ではありません。それはミルドレッドの怒りとして残されているだけです。
歯医者の指をドリルで突くことにも、火炎瓶で警察に放火することにも、仕方ないよねという論理性がまったくなく、そこにあるのは怒りだけです。その怒りもおそらく後悔からくる自分自身への怒りでしょう。
レイシスト警官のレイシストぶりのストーリーはあくまでも隠されています。おそらくゲイであることを隠そうとするがゆえの逆説的な差別行為や暴力行為だと思われます。つまり、この人物も自分自身への怒りを外に向けていることになります。警察署長の死を知り異常なほど泣き崩れたり、広告代理店の青年を窓から突き落としたりするほどの暴力行為のストーリーがまるでありません。
警察署長、善良な人物にしか見えないこの人物の暴力は自殺行為です。自分ががんであることが許せないのでしょう。絶望の自殺ではなく、人に迷惑をかけて生きることになる自分への怒りが拳銃の引き金を引かせたと考えるべきだと思います。
自分自身への怒りからストーリーのない暴力に身を委ねる人物たちの映画です。
ネタバレあらすじとちょいツッコミ
ミズーリ州の田舎町エビング、ミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)は町外れに3枚の看板を出します。
“Raped While Dying”, “And Still No Arrests?”, and “How Come, Chief Willoughby?”
娘をレイプし焼き殺した犯人が捕まらないことに業を煮やし、ウィロビー署長(ウッディ・ハレルソン)を責める看板です。
しかし、実はウィロビーは人望の厚い人物で、この看板によりミルドレッドは町中を敵に回します。特に部下のディクソン(サム・ロックウェル)はレイシストそのもので、ミルドレッドに暴力行為も辞さずの態度で敵対していきます。ウィロビーはそうしたディクソンの行動をよく思わず抑えようとしています。
ミルドレッドにも味方となる黒人やメキシコ人や小人症の男などがいますし、町の住民からの嫌がらせもありますが、映画としてはそれらに大きな意味はなく、あくまでもミルドレッド、ウィロビー、そしてディクソンの3人の映画です。
マイノリティとマジョリティ、それが時として逆転することもあり得るという、そうしたことも反映されているのでしょう。
ウィロビーがミルドレッドを訪ねてきます。警察は決して手を抜いた捜査をしているわけではないと言いますがミルドレットは聞く耳を持っていません。ウィロビーは(唐突に)自分はがんを患っていると言います。ミルドレッドは知っていると言います。
このシーン、え? 何を言い訳しているの? と思いましたが、(そう思う私は)やさしくないんですかね…(涙)。
ミルドレッドの回想、娘が遊びに行くから車を貸して欲しいと言っています。(何かの理由で)すでに険悪な状態です。ミルドレッドはダメと言っています。娘が歩いていてレイプされたらどうするの?!と言いますと、レイプされればいい!と返します。
別のシーンですが、ミルドレッドが元夫から、娘が殺される前に自分(元夫)と暮らしたいと言ってきたと聞かされ、また息子にそれを確認するとそうだと認めるシーンがあります。
ミルドレッドが歯の治療を受けています。歯医者がしきりに嫌がらせをします。ミルドレッドは医者からドリルを取り上げその指に突き刺します。
ミルドレッドはウィロビーから事情聴取を受けます。その最中、ウィロビーは吐血します。ウィロビーは一時入院し、退院後、いっときの妻や娘との安らぎの一日を過ごした後、自ら拳銃で頭を撃ち抜き自殺します。
映画的にはかなり唐突なんですが、演劇ではしばしばこういう大胆な展開がなされます。
ウィロビーの死を知ったディクソンは泣き崩れ、その後ミルドレッドの看板をあげた広告代理店の青年に暴行し二階の窓から突き落とします。
暴力に論理はないにしてもちょっとばかり無茶苦茶です。
そして、たまたまその暴力沙汰を後任の警察署長が目撃していたがためにディクソンは解雇されます。後日、同僚からウィロビーがディクソンあてに遺書を残しているという知らせを受け、まだ鍵を持っているだろうから取りに来いと言われます。
ちょっとドラマをつくりすぎです。
スリー・ビルボードが放火されます。それに怒ったミルドレッドは警察署に火炎瓶を投げつけます。
これも暴力に論理はないにしても無茶苦茶です。ミルドレッドとディクソンは同類ということでしょう。
警察署が放火されたその時、たまたま(じゃないけど)ディクソンは警察署に遺書を取りに来ています。遺書には、お前は警官になる素質がある、だがすぐにキレるからダメだ、人にやさしく接しろ、ゲイを侮辱するやつがいたら同性愛差別で逮捕しろとあります。ディクソンは自分のまわりが炎に包まれていることにも気づかず読み続けていました。そして、やけどを負います。
ミルドレッドのもとにウィロビーの妻があなたあての手紙だと悲痛な面持ちでやってきます。遺書には、憎しみだけで生きるな、看板の広告費を出しておいたとあります。以前、看板に対する妨害があり、資金不足になった時に匿名の誰かから資金援助があったのはウィロビーだったということです。
ドラマをつくりすぎています。
また、スリー・ビルボードに放火したのはミルドレッドの元夫だと明かされます。
後日、ディクソンが飲んでいる時にたまたま隣の席の男が自慢気にレイプ話をしている場に遭遇します。ディクソンは冷静にその男の車のナンバーを控え、席に戻り男に喧嘩を売り顔を引っ掻いてDNAを採取します。男からは暴行されますが抵抗しません。
ディクソンはミルドレッドに電話をしてことの経緯を話し期待を持たせます。しかし、DNAは一致せず、その男は軍人で事件当時は国外、砂が舞う地にいたということです。
2006年のアメリカ軍兵士によるイラクでの少女暴行殺害事件を指しているのでしょうか。ということはその時代の映画ということになります。
ディクソンはミルドレッドにその結果を伝え、しかし相手が誰であるにしろあの男はレイプ犯に違いないので男のところへ行くと言います。
そして翌朝、ディクソンとミルドレッドは男のもとへ車を走らせます。ふたりはその男をどうするかについて「行きながら決めればいいさ」と笑いながら顔を見合わせています。
何とも不条理で怖い話です。
自らの悪(意)を持て余す人間たち
この映画にあるのは優しくありたいと願いながらも怒りしか持てない人間たちの自らに対するいらだちの映画ではないかと思います。
善人ぶってさっさと死んでしまうやつ(ペコリ)、なんとかしたいと思いながらも怒りを抑えきれず後に後悔し戸惑うやつら、そうした業を持った人間存在というということなんでしょう。
イギリス、そしてアイルランドからじゃないと生まれない映画のような気がします。