ヒューマン・ボイス

ジャン・コクトー「人間の声」を再び翻案、現実と非現実、飛び出す女

ジャン・コクトー「人間の声」の翻案ものといえば、アルモドバル監督は、すでに「神経衰弱ギリギリの女たち」で一度試みています。ただ、その映画は翻案というよりも、発想の原点といいますか、触発されたといいますか、ほとんど原作の原型をとどめていませんのであらためて挑戦したということなんでしょう。今度は原作により近い構成の30分の短編でティルダ・スウィントンさんの一人芝居です。

ヒューマン・ボイス / 監督:ペドロ・アルモドバル

捨てられた女、飛び出す女

自分を捨てた男からの電話を待つ女というシチュエーションは原作と同じですが、アルモドバル監督が原作のようなすがる女を描くはずはなく、ティルダ・スウィントンが演じる女は、ラストでは部屋にガソリンを撒き散らし火をつけて去っていきます。

ただし、映画の冒頭から示されているようにその部屋はスタジオのセットです。明らかに女の生活空間が虚構であると見せているわけで、じゃあその向こうに見えるスタジオの壁や置かれた大道具が現実かと言えばそうともいえず、女は部屋のセットを抜け出してスタジオという空間の中でも同じように演技を続けています。

アルモドバル監督は、というわけでもなくどんな監督でもですが、いちいち映画のあれこれに意味付けをして作っているわけでありません(と思う)ので、この設定が何を意味しているかは見る側がどう見るかでしかなく、ただ少なくとも閉鎖的な空間、孤立した空間、孤独な自分から飛び出していく女を描こうとしていることは間違いないでしょう。

虚構、現実との曖昧なボーダー、そして女はスタジオのドアの向こうの茫漠とした現実へと飛び出していきます。

非現実とリアリズム

アルモドバル監督とコクトーは似たところがあるように思います。アルモドバル監督自身もコクトーに惹かれるところがあるのかもしれません。多少は互いにゲイであることが影響しているかもしれません。

ジャン・コクトーは多才な人ですのでなかなか全体像がつかみにくい人物ですが、映画からの印象ではファンタジックなものをリアルに描くみたいなところがあり、そうしたところはアルモドバル監督にも似たようなものを感じます。

この「ヒューマン・ボイス」は映画の背景描写とキャスティングに明確に現れています。

セットデザイン、衣装、音楽、それら女を取り巻く環境はアルモドバル監督の世界そのものです。ファンタジックとは言えないもののリアリズムではありません。その環境の中の女ティルダ・スウィントンさんの演技はリアリズムそのものです。スウィントンさん自身もリアリズム的な俳優さんだと思います。それをわかってのキャスティングでしょう。

ただ、それが成功しているかどうかはかなり微妙な感じがします。この試みからなにか新しいものが立ち昇ってくる感じがしません。殺伐として空虚さが残ります。あるいはそれが狙いなのかもしれません。