2021年のアカデミー賞でアンソニー・ホプキンスさんが主演男優賞を受賞した「ファーザー」のフロリアン・ゼレール監督の最新作です。ゼレール監督自身も脚色賞を受賞しています。
その前作が「The Father」で、この映画が「The Son」です。日本の公式サイトに家族三部作とありますので、次は The Mother とかでしょうか? でも、そうしますと The Daughter がのけ者になっちゃいますので、ずばり The Family かも知れませんね。無駄話でした(ペコリ)。
観念が先走りすぎている…
「ファーザー」もそうでしたが、現実感の薄い観念的な映画です。
ピーター(ヒュー・ジャックマン)は妻ベス(バネッサ・カービー)と生まれたばかりの赤ん坊とともに暮らしています。ピーターはマンハッタンの弁護士事務所で働く弁護士です。社会的に成功した人物という設定です。
ある夜、突然、元妻ケイト(ローラ・ダン)がピーターを訪ねてきます。ケイトとの17歳の息子ニコラス(ゼン・マクグラス)がひと月も学校へ行っていない、私を憎んでいるように感じる、あなたと暮らしたいと言っていると切羽詰まった様子で話します。
そして、ニコラスはピーターのもとで暮らすことになり、決してわかりあえない父と息子の物語が始まります。
妻のベスは赤ちゃんの夜泣きで大変なのに、そこに父親の離婚を責める(原因はベスだと思っている…)思春期の息子が同居するわけですからたまりません。なのに映画的にほとんど有効な役割を与えてもらえません。ベスが映画を動かすことはありません。後半には、ピーターとの間に喧嘩があったらしく(シーンがカットされている…)1週間ほど実家に戻っていました。
元妻のケイトも添えもののような役回りしか与えてもらえません。建築士の(ような…)仕事をしているシーンが2シーンほど入っていましたが、これも映画的にほとんど意味がありません。意図的に(ピーターと社会的に同等とみせている…)付け足している印象です。
意図的という意味では、同じくあざとく感じるシーンがピーターの方にもあります。赤ちゃんの夜泣きのシーンではピーターに自分が行くと言わせたり、別のシーンですが、ベスにわざわざ自分は家にいるだけと自嘲的に言わせたりしています。
ピーターの父親アンソニー(アンソニー・ホプキンス)のシーンもわざとらしいです。後半になって唐突な印象でワンシーンだけ入ります。ほとんど交流はないようですし、特別訪ねる用もないにも関わらず、仕事でワシントンに来たので寄ったと言っていました。ここで映画が見せようとしているのは、アンソニーの父権主義的、家父長主義的、男根主義的価値観です。そして、その価値観がピーターに連鎖していると言っているわけです。
ピーターの仕事上のシーンはそれなりに量がありますが、そのほとんどは次期大統領選の選挙チームに誘われているという設定のシーン(それがワシントン行き…)です。描き方としてはかなり中途半端でピーターの人物造形にはあまり役に立っていないのですが、これもピーターが父権主義的、家父長主義的、男根主義的価値観の父親だとみせるためのシーンです。大統領候補も参加した選挙チームのミーティングがありましたが、確か女性がひとりも入っていなかったと思います。あえてそう見せているのでしょう。
結局この映画がやろうとしていることは、ピーターの父権主義的、家父長主義的、男根主義的価値観がニコラスを傷つけ自殺に追い込んだと言っているわけです。それはそれとしてそういうケースもあると思われますのでいいのですが、問題は現実感をともなって描かれているかということです。
とても作りものくさい父子関係です。
父ピーターの苦悩
作りものくさく感じられるひとつの理由はピーターの人物造形がうまくいっていないことです。
この映画のピーターのシーンで、意味のあるシーンはピーターとニコラスのシーンだけです。仕事上のシーンはそれなりに量があっても現実的なシーンはありません。弁護士としての仕事のシーンはまったくありません。マンハッタンを背景にしたオフィスでニコラスのことを思い悩むシーンばかりです。大統領選に関してはすでに書きましたようにこちらも現実感はありません。
結局、この映画のピーターのシーンはニコラスのことを考えている以外に意味のあるシーンはないということです。それなのに、一向にニコラスとの関係が変化していかないのです。最初から最後までピーターとニコラスの関係は同じことの繰り返しです。いや繰り返しているのではなく、まったく動きがなく静止しているかのようなシーンが続きます。
こういうことです。動きがないのであれば、ピーターは圧倒的に父権主義的、家父長主義的、男根主義的であるべきだということです。この映画のピーターはそうした人物ではありません。そういう人物には見えません。少なくとも苦悩しています。その苦悩がニコラスに届かないということです。
なのに映画はニコラスに自ら命を絶たせています。
結局、この映画のチグハグさは脚本監督フロリアン・ゼレール監督の意図(と思われるもの…)が映画として表現されていないということにつきます。
あの結末は映画として妥当なのか…
あのニコラスの最後は映画として妥当なものだったのでしょうか?
ドラマ手法としては中盤で銃の存在を見せていますのであるいはと予想はさせますが、そういうことではなく、映画として何が語りたかったのかという点ではかえって映画を無に帰すような選択だと思います。
自ら命を絶たせて何を語りたかったのかということです。何も残りません(私には…)。
ニコラスが命を断った数年後、ピーターは妄想を見ます。ニコラスが大学に進み、その後作家となり、デビュー作をピーターに贈り、さらに結婚するつもりだと告げる妄想です。そして、ピーターはその後泣き崩れ、ベスに抱きしめられ、それでも人生は続くのよと慰められて終わります。
このドラマを最も映画的に終えるのであれば、ピーターは自らニコラスの入院を選択し、そのことで苦悩し続け、そしてそれでも人生は続くんだと自らにその過ちを課して苦悩し続けるべきだったと思います。
息子ニコラスの苦悩
ところで17歳のニコラスの苦悩は何でしょう?
これが現実であれば、17歳の悩みなんて誰にもわかりません。突き放すような言い方でなんですが、いじめといった直接的な原因行為がない限り、思春期の悩みなんてそういうものです。
映画はそれに対して、一番の原因は両親の離婚であると描いています。ニコラスもそうした意味合いのことを言いますし、それに対してピーターが家族3人の幸せだった(とピーターが思う…)過去を思い返すフラッシュバックを頻繁に挿入しています。
現実にあり得るのは、仮に両親の離婚がニコラスの苦悩のきっかけであったとしても、もっと漠然としたものでしょう。実際、映画でもニコラスは生きる意味がわからないと言っています。映画の中ではそれがピーターの父権主義的、家父長主義的、男根主義的価値観と対照的に描かれていることで、ニコラスの苦悩があまりにもわかりやすくなっています。
つまり、わかりやすいがゆえに自傷行為や自殺行為と結びつきにくく感じられるということです。
これは映画ですから、つらいことも、悲しいことも、気持ちが重くなるようなこともなんでも描けます。つらい話だなあでは何の意味もありません。この映画で言えば、The Son と言いながら、描いているのは The Father のエクスキューズだけです。ピーターが、最悪の結果にならなかった自らが望む妄想をみることでピーター自身も苦しんでいるんだと見せているのは、まさしくその証です。