ウーマン・トーキング 私たちの選択

あなたは男社会を赦す?戦う?逃げる?と映画が問うてくる

アウェイ・フロム・ハー 君を想う」のサラ・ポーリー監督、あれは2007年の映画でしたので16年ぶりということになります。監督自身はその間にも2、3本の映画やテレビドラマを撮っています。

この「ウーマン・トーキング 私たちの選択」の主演はルーニー・マーラさん、私には「キャロル」を見た以降、評価の高い俳優さんです。

ウーマン・トーキング 私たちの選択 / 監督:サラ・ポーリー

女性たちは男社会をどうするか議論する

かなり疲れる映画です。

理由のひとつは映画が議論で成り立っており、議論のシーン自体は映画の1/3くらいとさして多いわけではありませんが、その多くが短い発言ですので次々に人物が変わり、それに合わせてカットも切り替わりますのでとても疲れます。

そして、もうひとつの疲れるわけは、こちらの方が精神的ダメージが大きいのですが、その議論がまさしく現在の男性優位社会をどうするかについての女性たちの議論であること、それを映画の制作者がそれと意図していることがあからさまだからです。

ある宗教コミュニティでのレイプ事件に端を発し、女性たちが、男たちを赦す、戦う、逃げるの三択で投票し、その結果、戦うと逃げるが同数であったために、その代表の三家族が話し合って決めるという話です。

この映画には元ネタがあり、2005年から2009年にかけてボリビアのメノナイトのコミュニティで起きた事件をもとに、カナダの小説家ミリアム・トゥーズ(Miriam Toews)さんが2018年に発表した『Women Talking』が原作になっています。著者本人がこの小説について「an imagined response to real events(実際の出来事をもとにした想像上の産物)」と語っていますのでルポタージュではなくフィクションということです。

実際、ウィキペディアのメノナイトの項目を読みますとこの映画からメノナイトをイメージするのは間違いです。

ただし、ボリビアの事件自体はかなりひどい話で、家の窓などから動物用の麻酔薬を吹き付け家族全員の意識を失わせた上で暴行に及んだということであり、被害者は151人(ウィキペディア)に及び、8人が逮捕されて7人が有罪判決をうけたそうです。さらに関連裁判でも3人が有罪となっています。

赦す? 戦う? 逃げる?

ということで、映画ですが、この映画ではそもそものレイプ犯罪は重要な要素ではありません。あくまでも女性たちが未来に向けてどう決断するかです。それに、すべての男たちがレイプ犯というわけではないのに議論の対象となっているのは男たちによる権威主義的社会です。レイプ犯はもとより、それを「女性の欲望がなせる妄想」だとか「悪魔の仕業」だといって隠蔽してきた男たちであり、それを容認する男性優位社会であり、ひいては男という存在に内在する暴力性にまで及んでいます。

三家族で始まった議論ですが、まず赦す派の代表スカーフェイス・ヤンツ(フランシス・マクドーマンド)一家が抜けます。そして議論は、戦う派と逃げる派で進むわけですが、唯一サロメ(クレア・フォイ)が最後まで戦うことを主張する以外は誰が戦う派で誰が逃げる派などと明確になっているわけではありません。こうしたところはよく現実が反映されていると思います。常に人の考えは揺らぐもので、映画でも、戦うか逃げるかの議論であっても頻繁に赦すという選択肢が誰からともなくもれてきます。

もうひとつ重要なのは、書記係としてひとりの男性オーガスト(ベン・ウィショー)を参加させていることです。女性たちは男たちに支配されてその環境が与えられず読み書きができません。未来のために記録を残そうとオーガストの参加を認めています。

また、ドラマ作りということもあるのでしょう、オーガストはオーナ(ルーニー・マーラ)を愛しています。オーナもそれをわかっており応えるつもりでいます。ただオーナは暴行されたことによるものと思われる妊娠をしています。

オーガストはこの宗教コミュニティから追放された家族の一員であり、大学出であるためにコミュニティの子どもたちの教育係として呼び戻されている存在です。コミュニティに属する男ではないことが重要です。

この映画では女性たちの話の中に家族や夫といった価値観がほとんど出てきません。唯一ラスト近くで男がひとりだけ先に戻ってくることになり、それがマリチェの夫クラースであり、集会のために帰りが遅くなったマリチェと娘のオーチャを暴行したらしく、翌日マリチェは腕を包帯で吊り、目のまわりが腫れ上がり、同じようにオーチャの顔も傷ついていました。

設定が宗教コミュニティということからだと思いますが、それ以外の女性たちからは夫という言葉さえ出てきません。

映画というよりも映画制作者の主張のようだ

この映画の重要ポイントではあるのですが、議論の内容を詳しく書くことはできません。記憶していません(笑)。誰かが発言するたびにこれは誰だっけ、前にはどう言っていたっけと整理していくのが大変です。途中であきらめました(笑)。

それに宗教コミュニティという閉鎖社会自体がなかなかイメージできない上に、これは映画ですので、女性たちの発言は知的で社会性のあるものとなっており、とても読み書きができないようにはみえず、それだけに映画の中の発言が即映画制作者たちの発言にも思えてしまいます。

とにかく、議論以外のシーンでは、広大な農場で遊ぶ子どもたちとメルヴィン(オーガスト・ウィンター)のシーンが多く登場します。

このメルヴィンはトランスジェンダーで、レイプされた以後、子どもたち以外とは一切話しをしなくなっています。しかし、ラスト、一言だけ話します。さほど決定的なものではなかったと思います。記憶していません。

そして、オーナとオーガストのシーンでは、二人が未来を誓い合ったり(愛を誓い合うという印象ではない…)、オーナがオーガストの記録したものを見て、これは何と尋ねることにオーガストがカンマと答えたり、オーナが屋根の上で南十字星から方向を知る方法を教わったりします。ふたりの拳が満天の星空に突き出されているカットはきれいでしたし、映画の意図するところでもあるのでしょう。

逃げるのではなく去るのだ…

結論が出ます。選択肢であった逃げるのではなく去るのです。これには大きな違いがあります。去ることは主体的ということです。英語で何と表現されていたかは記憶にありませんし、映画の中でそうした違いが表現されていたか、私の思い込みかは今となってははっきりしません。三択のひとつは最初から leave でした。

その際同行できるものとして男の子どもたちをどうするかが議論になります。年齢です。12歳だったか14歳だったか以下のみ連れて行くことに決まります。女性たちが15歳(13歳かも…)は危険かとオーガストに尋ねます。オーガストはその年齢の男子は性にも目覚め自己主張が強くなるので危険だと答えます。

この価値観、かなり危険な思想ですね。人間を選別しています。

とにかく、出発は翌朝の朝と決まり、子どもたちがコミュニティ中の女性たちに触れ回ります。そして朝、農場の道路には何十台にも及ぶ馬車が連なっています。そこには赦す派のスカーフェイス・ヤンツの娘や孫も加わっています。オーガストが納屋の窓から手を振っています。

という、女性たちがニューワールドを目指して旅立つという映画でした。

カオス・ウォーキング」という映画を思い出しました。