怪物

幸せは誰もがそう思えるものではなく、自分自身が幸せと思えればそれでいいのだが…

つい数日前にカンヌ国際映画祭で脚本の坂元裕二さんが脚本賞を受賞しており、話題性の上でもとてもタイミングのいい公開です。それにしても是枝裕和監督はカンヌに出品する映画はすべて何らかの賞を受賞しています。「ベイビー・ブローカー」「万引き家族」などなど、と思い調べてみましたらそうでもなかったです。逆に言えば、それだけ多くの映画を出品しているということでもあり、それはそれで選ばれているわけですからすごいことです。

怪物 / 監督:是枝裕和

羅生門的三幕構成

シナリオの構成は、ある出来事に対して三人の視点で描くという黒澤明監督の羅生門的構成に、コトが起き、変調し、解決するという三幕構成(または序破急…)を重ね合わせるという複合的なものになっています。

ですので、ある期間の出来事が3つに分解されて編集されており、かなり複雑な映画になっています。火事、ガールズバー、チャッカマン、猫、身代わり自首など数多くの目くらましが入っていますのでさらに複雑に見えます。また、三幕構成上の3つ目の解決編にしても、答えを出さずに終えていることも多くかなり曖昧な終わり方をしています。おそらく結末の内容(年齢…)上、これ以上は突っ込めないとの考えではないかと思います。あるいはいろんな社会問題を詰め込みすぎていますので解決しようがなかったということかもしれません。

その点ではとても疑問に感じる映画です。その疑問は最後ということでまずは記憶を辿りながら映画を振り返ります。やや記憶も混乱しているところもあります。

第一幕 麦野(安藤サクラ)の視点

麦野(安藤サクラ)は小学5年の息子湊(黒川想矢)の異変に気づき、それが担任教師保利(永山瑛太)のいじめ(虐待…)によるものではないかと考え学校へ真相を確かめに行きます。しかし、学校の対応は校長(田中裕子)を筆頭に皆ことなかれ主義であり、またことを荒立てないようにと保利を正面に立たせないようにしています。

湊の異変は次々に起こります。その度に麦野は学校に赴きますが、学校の対応には全く誠意というものが感じられません。

湊の異変はさらに続き、ある日、麦野はいなくなった湊を探して人里離れた廃線トンネルに入り、「怪物、だ~れだ…」と叫ぶ湊を見つけます。帰り道、湊が突然車のドアを開けて飛び出します。幸い怪我は大したことなくすみます。

学校の対応はますます隠蔽体質になっていくうえに、麦野は保利から、湊くんは依里(柊木陽太)くんをいじめていると聞かされます。依里の家を訪ねた麦野は、そこに湊が失くしたスニーカーの片方を見つけ、また依里の腕に丸い火傷の痕を見つけます。

麦野は弁護士を立てて真相を明らかにしようとします。そして学校では保護者への説明会が開かれ、ことは公になり、新聞にも教師による生徒へのいじめと報じられます。

そして、台風接近中の日、湊がいなくなります。

ここまでが一幕で、描き方としては麦野(安藤さくら)に感情移入するように作られています。

第二幕 保利(永山瑛太)の視点

続いて二幕は保利の視点でほぼ同じ期間の同じ出来事が描かれます。

保利は新任の教師であり、生徒たちとも積極的にコミュニケーションを取ろうと考えています。プライベートでも恋人(高畑充希)にどうすれば生徒たちに受け入れられるかと笑顔の作り方やジョークまで相談しています。

保利が担当するクラスでは生徒によるいじめが起きています。被害者は依里、加害者は2人、他の生徒は見て見ぬふりをしています。保利は気づいていません。

一幕で麦野が感じた湊の異変はすべてこのいじめに絡むものです。湊が怪我をしたのは依里がいじめられていることを助けられない自分に腹が立ち、ひとりで暴れている時に保利が止めようと怪我をしたものであり、また保利が湊の脳は豚の脳と言ったとの話は依里が父親(中村獅童)から言われていることがいじめに使われていることからの湊の嘘であり、トイレの件で保利が湊が依里をいじめていると考えたのは誤解であったという具合です。

麦野の抗議に対する学校の対応も保利が望むものではありません。保利の思いは校長以下教頭や学年主任によって押さえつけられています。保利は次第に消耗していきます。新聞記事になるや恋人も去っていきます。

そして、台風接近中の日、保利は湊の作文を読み、そこに湊が依里に特別な感情を持っているのではないかと気づき、雨が降りつける中、湊の家に駆けつけ、湊がいなくなっていることに気づいた麦野とともに件の廃線トンネルへ向かいます。しかし、道路は土砂崩れで通行止めです。ふたりは静止する係員を振り切って廃線トンネルへ向かいます。

たどり着いた先では廃棄された列車が横倒しになり(上がガラスだからそういうことでしょう…)、ふたりでこじ開けるも中には誰もいません。

ここまでが第二幕、やはり描き方としては保利(永山瑛太)に同情が向かうように作られています。

第三幕 湊の視点

そして第三幕、前二幕と同じ期間が湊と依里の交流を湊から依里への思いに軸足をおいて描かれます。

結論から言いますと、湊のセクシュアリティの迷いです。湊は依里に特別な感情を感じています。しかし、それが何であるかは今だわかりません。映画は、これまで湊の身の回りに起きたいくつかの出来事の答えに湊のそうした悶々とした気持ちを使っています。

湊は依里がいじめられていることを見ています。他の生徒は見て見ぬふりをしているだけですが、湊は依里を助けたいと思う反面、依里への整理のつかない気持ちを皆に知られたくないという思いがあります。それが依里がいじめられている時に突如暴れるという行為に現れたわけですし、また湊が髪を切り落とした行為も男らしくという社会のジェンダー観による自己規制からのものです。

映画は保利にしきりに男らしくと言わせています。また、麦野にも成人して結婚して家族を持つことを願っていると言わせています。

湊は依里と親しく話すようになりますが、依里には学校で話しかけないでと言います。湊がいじめの対象になりたくないと考えているようにも見えますが、それだけではなく依里への特別な感情を知られたくないからでしょう。

湊のスニーカーが片方しかないことで麦野がいじめと誤解したことも、依里がいじめられ裸足で帰ることになった時に湊が片方貸したことが明らかになります。また、依里が父親からお前の脳は豚の脳だと言われていることを知り、うすうす父親からの虐待を感じ始めます。

廃線トンネルの秘密基地は元々は依里のものであり、親しくなるにつれふたりの秘密基地になっていきます。麦野がいなくなった湊を探しに廃線トンネルに入り湊の「怪物、だ~れだ」の声を聞いたのは、湊が依里に掛けたものであったことも明らかにされます。また、その帰りに湊が車から飛び降りたのも、依里からの電話にどうしてもでなくてはいけないと思ったからです。そのわけは次第に依里への思いが強くなったからでもあり、依里への父親の虐待を知ったからです。

そして後日、その秘密基地で湊は依里への気持ちが友情ではなくセクシュアリティに関わることであるとはっきり認識します。映画は依里がすでに自分の性的指向が男性に向かっていることを認識していると描いているようです。父親からの虐待はそのことから発しているようです。ただ、父親はアル中でもありますのではっきりしません。あえて曖昧にしているのでしょう。

そして台風接近中の日、湊は家を抜け出し依里の家に向かいます(なぜだったか記憶にない…)。依里はバスタブの中でぐったりしています。父親の虐待なのか、自殺未遂なのか、何だったんでしょう。とにかく二人は雨の降りしきる中秘密基地へ向かいます。

そして台風が去った翌日…か、ファンタジーシーンかははっきりしませんが、湊と依里はなにかから解放されたかのように緑の中を笑顔で走っていきます。

理不尽なことから目を背けたドラマでいいのか…

この映画には現実の社会に存在する理不尽なことが網羅されています。

学校組織の隠蔽体質、校長以下管理職のことなかれ主義、生徒間のいじめ、親の虐待、ジェンダー観の押し付け、これらはこの映画の中ではすべてコトの後景に追いやられています。

でもこの映画の中の出来事が何であるかを考えてみますと、人が自分に対して行われたら嫌なこと、つまり理不尽だと思うことを行っているのが誰かははっきりしています。

校長であり、いじめの加害者の二人であり、依里の父親です。

そのことを置いておいて、あたかも湊と依里の二人に未来が開けているような描き方で本当にいいのかと疑問を感じます。それがファンタジーのように描かれているとしてもです。

湊が「自分が幸せになれないことがバレるのいやだ」ということに対して、理不尽なことを平気でする校長に「誰もが幸せと思えないことは幸せじゃない」と言わせているのはナンセンスです。

人の幸せは他人がどうこういうことではありません。自分が幸せだと思えるのであればそれが幸せです。誰もが幸せだと思えるというその価値観がナンセンスです。