或る終焉/ミシェル・フランコ監督

あまりに唐突なラストで映画の内容が飛んでしまっています。無名か、それに近い俳優で撮るべきだと思います。

さほどいい映画だと感じたわけでもないのに、なぜか気になって、それ以後、時に、その映画を思い出し、他の映画を語る例えに出してしまう映画、ミシェル・フランコ監督の前作「父の秘密」がそれです。

その「父の秘密」(2012年)が、カンヌの「ある視点」でグランプリ、そして、この「或る終焉」が、昨年の脚本賞を受賞しています。

いわゆる、カンヌが好む監督ということになるのでしょう。

デヴィッド(ティム・ロス)は、終末期患者の看護師をしていた。 別れた妻と娘とは、息子ダンの死をきっかけに疎遠となり、一人暮らし。ある日デヴィッドは、末期がんで苦しむマーサ(ロビン・バートレット)に安楽死を幇助して欲しいと頼まれる。(公式サイト)

言葉が適確かどうか微妙ですが、言うなればミニマムな映画です。「父の秘密」もそうでしたが、一切説明というものをしません。そうしたものは意図的にカットされ、見る側が自身で組み立てていくように撮られています。

その辺りがかなり巧みで、何となくではあっても、見進むうちに、それなりに全体像がつかめてきます。そして最後は、「何!?」と終えるのがこの監督の手法なのでしょう。

「父の秘密」では、「なっにぃ~!?」と呆然とするような「何」でしたが、この映画は「えっ!!」といった一瞬の驚きでした。それに、「父の秘密」のラストは、映画の意味合いを決定づけるものでしたが、この映画では、あまりにも唐突過ぎて、「あ、そう…」で終わってしまう、余韻も何もないようなあっけないものでした。

ラストの驚きが映画の内容に結びついていないのです。なぜそうすべきと考えたのかは分かりませんが、ラストのせいでそれまでの積み重ねが飛んでしまっています。

それに、このシナリオで、この撮り方なら、無名の俳優を使って撮るべきじゃなかったでしょうか。

看護師? 介護士? どちらなのか、映画を見ているだけではよく分かりませんでしたが、デヴィッドが何を考えているのか、なかなか見えてこないです。どんなに演技臭さを消そうとして坦々と介護をしていようと、そうした演技をしていると見えるわけで、手慣れた動きも、相当繰り返して練習したんだろうなあと見えてしまいます。

まあ、そこまで勘ぐりながら見る方も見る方ですが、映画自体が説明を拒否している以上、見る側が考えざるをえないわけですので、その点では知っている俳優であることがマイナス要素になるということです。

ミシェル・フランコ監督は、メキシコ出身ということですが、終末期医療という点で思い出す映画があります。 

マリア・ノバロ監督の「グッド・ハーブ」、こちらもメキシコ人監督です。

人の終末期のあり方という点では同じような結末でしたが、作りっぽさがなく、思いの熱さと冷めた感じのバランスがとてもいい映画でした。

ということで、この「或る終焉」は、映画のつくりと俳優がマッチしていない印象の映画でした。