ミツバチと私

大人が考える6歳の子どもの性自認ではないのか…

6歳の子どもの性自認と家族の混乱を描いたスペイン映画です。

ミツバチと私 / 監督:エスティバリス・ウレソラ・ソラグレン

大人の考える性自認ではないのか?

その子どもアイトール(一般的に男の子につけられる名前らしい…)は身体的性は男の子ですが、その名前で呼ばれることを嫌い、自らココと名乗ったり、聖ルチア(からだったと思う…)の名からルシアと呼ばれたいと言っています。また、肩下くらいまで伸ばした髪を切るように言われても拒んでいます。ドレスを着たいというシーンもありました。

これらが性自認の意思表示であるかどうかは置いておくとして、映画はこの意思表示の内面として、一貫してアイトールが男の子として見られることを拒否しているように描いています。

迷いや悩みではありません。男の子になりたくないという強い意志表示が描かれています。

子どもが自らの性をどのように自覚していくのか、ましてや6歳の子どもがその過程のどの段階にあるのかもまったくわかりませんが、この映画の表現にはかなり違和感を感じます。

ましてや、そのアイトールを身体的性が女の子に演じさせています。

なにかしっくりきません。要は子ども目線の映画ではないということです。性自認に悩む6歳がいるとしてその本質的なことに迫れているかどうかということです。

大人の考える性自認の意識を6歳の子どもに押し付けて描いているようにしか見えません。

それを描くのであれば、その子どもを軸にするのではなく、その時、両親をはじめ大人はどうするのか、どうしたらいいのかに焦点を当てるべきだと思います。

単に、ルシアと呼ばれれば満足ということではないでしょう。

子どもに俳優賞授賞はいいことか?

そのアイトールを演じたソフィア・オテロさんが昨年のベルリン国際映画祭で最優秀主演俳優賞の銀熊賞を受賞しています。2013年生まれの現在10歳、おそらく撮影当時は7、8歳でしょう。

はたしてオテロさんに演じていた感覚があるのでしょうか。

この授賞、ある種大人のルッキズムじゃないかとも思います。少なくとも俳優賞は演じることを自覚できる年齢以上にしたほうがいいんじゃないでしょうか。

大人の都合で人生が変わってしまわないことを祈るばかりです。

映画手法がよくわからない…

監督はエスティバリス・ウレソラ・ソラグレンさん、40歳くらいの方で、この映画が初の長編劇映画です。脚本もソラグレンさんです。

ちょっと変わった映画手法です。

まずカメラワーク、人物のウェストショットくらいのカメラ位置がやたら多く、映画上重要と思われることがフレーム外にあってもそれを撮ろうとしません。かと言ってフィックス主体の画づくりというわけでもなく、ハンディで動き回ったりします。

シーンの切り替えもスムーズではありません。唐突さを感じることが多く、シークエンスというまとまりを感じさせるものがありません。映画全体でひとつみたいな感じがします。

そうしたことから映画の流れが悪く、芯が通っていない感じがします。

アイトールの家族は両親と姉と兄です。夏の休暇でフランス(多分フランス領バスク…)の住まいから母親アネの故郷スペイン(多分バスク…)へ向かいます。2週間と言っていたと思います。父親は行かないと言っています。

この両親の関係がどういうことなのかはほとんど描かれません。アネの母ルルデスからは別れるのかと言われたりしていますし、別居するのかアパートメントを探していたりします。

出かける際に、父親が行かないと言いますと兄も行きたくないと言います。兄は父親べったりの印象です。アイトールは父親を嫌っているようでもありますので、おそらくこうした表現にも家族内のジェンダー観が描かれているんだろうと思いますが、とにかくはっきりしません。

こういう表現をするのであれば、アイトールに焦点を当てるにしても、アイトールだけを撮り続けるのではなく、両親や兄弟を撮ることでアイトールを描く手法を取るべき題材ではないかということです。

母親の描き方も同じような感じです。母親は結婚する前は彫刻(鋳造かな…)をやっていたらしく、この休暇中に実家のアトリエで制作し、それを応募して教職につこうとしています。この作業もかなり厚く描かれるのですが、アイトールのことと絡んでこずに浮いた感じで終わります。実際、制作がうまくいかなかったのか父親(彫刻家だったようだ…)の作品を送って採用されるも、最後には断るつもりだと言っていました。

なんだかちぐはぐで、まとまっていきません。

とにかく、映画はそのスペインでの休暇中のアイトールが描かれます。重要なのは祖母ルルデスとのやり取りのようでもありますが、それもあまりはっきりとはしていません。

祖母は養蜂をやっていますが、それが生計の手段にもみえませんのでどういうことなのかよくわかりません(蜜蝋をとるためかな…)。蜂を怖がっていたアイトールに、怖がらなければ刺さない、深呼吸してなどと教えて、アイトールが理解するシーンもありますが、それがアイトールの性自認の迷いに関わっているようにも描かれていません。

原題は「20,000 especies de abejas」で、20,000種のミツバチという意味です。性自認も人それぞれという意味かと思いますが、その割にはミツバチが絡んできません。それにミツバチって女王蜂と雄蜂と働き蜂という、ある種画一的集団ですからね。

で、いろいろあるようにみえて、特にこれといったことがなく進み、お祭りなのか誰かの洗礼の日なのかにアイトールがいなくなり、皆で、アイトール! アイトール! ココ! と探し回るも見つからず、最後に母親がルシア! ルシア! と呼び、シーンはカットアウト、そして次のシーンでは母親や姉兄とともにアイトールがくつろいでいるシーンで終わります。

邦題から「ミツバチのささやき」を思い浮かべないほうがいいとは思います。