僕たちは希望という名の列車に乗った

東西ドイツの分断は人の心も引き裂く

監督はラース・クラウメさん、前作は「アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男」という、ドイツの検事長フリッツ・バウアーがアイヒマンを追い詰める過程を描いた映画でした。今作はベルリンの壁が建設される少し前の東ドイツの物語です。

IMDbによれば、イタリアで生まれ、フランクフルトで育ち、「the German Film and Television Academy」を卒業、キャリアもかなり長く、1996年くらいから主にテレビの仕事をやっている方のようです。

僕たちは希望という名の列車に乗った

僕たちは希望という名の列車に乗った / 監督:ラース・クラウメ

で、映画ですが、ディートリッヒ・ガルスカさんの手記『沈黙する教室』が原作になっています。手記ですから当然ガルスカさん自身が、映画のように東ドイツから西ドイツに逃げた(亡命?)経験を持っているということでしょう。翻訳者の大川珠季さんによりますと、映画のクルトがガルスカさんをベースに造形された人物とのことです。 

沈黙する教室 1956年東ドイツ?自由のために国境を越えた高校生たちの真実の物語

沈黙する教室 1956年東ドイツ?自由のために国境を越えた高校生たちの真実の物語

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1956年、東ドイツのスターリンシュタット(アイゼンヒュッテンシュタット)での物語です。東ドイツが一夜にして西ベルリンを壁(有刺鉄線)で囲ってしまったのが1961年ですので、その5年前、まだ比較的東西の往来が自由だった時代です。映画でもクルトとテオが祖父の墓参りを口実に西ベルリンへ行き映画を見る場面があります。ウィキペディアによれば、「1950年代の時点で東から西の職場へ行っている者が約63000人で、逆に西から東の職場に行っている者が約10000人いた」そうです。

1956年はまたハンガリー動乱というソ連の支配に対する民衆蜂起があった年でもあり、クルトとテオがそのニュース映像を見たことからこの事件、この映画は始まります。

クルトとテオ、学制は異なりますが日本で言えば高校三年生ということになり、(おそらく)大学のような上位の学校へいけるかどうかという立場にいます。単純化すれば、大学へいければホワイトカラー、いけなければブルーカラーということなんでしょう。

また、後半に台詞としても語られますが、卒業試験(のようなもの?)は西ベルリンでも同様に受けられたらしく、大川珠季さんによれば、「アビトゥーアに合格してさえいれば、その成績次第ではあるものの、どの地域の大学であっても入れる可能性」があるものだそうです。クルトやテオたちがする決断には、そうした未来への可能性や、まだ東西ドイツの分断が固定化していない時期であったことも影響しているのかもしれません。

で、西ベルリンから戻った二人は、同級生たちにハンガリー動乱のことを話し、そのひとりパウルのおじさんの家で西ドイツのラジオ局RIAS(Radio in American Secter)を聞き、再確認します。

翌日、二人は、授業の前にハンガリーで亡くなった人々に対し皆で黙祷しようと呼びかけます。エリックという、後に重要な役回りとなる生徒の反対意見もあるのですが、多数決により全員で黙祷を始めます。と、ちょうどその時、教師が入ってきます。教師が呼びかけても誰も返事もしません。 異変に気づいた教師は校長室に駆け込みます。

要は、ハンガリーでの民衆蜂起に同意の意志を示すことは反革命的行為であるということなんですが、校長は、子供たちのいたずらということで穏便にすませようとします。

しかし、どこにでもと言いますか、これは映画ですから当然なんですが、許せないという人間もでてくるわけで、ことはそれでは済まなくなります。日本で言えば教育委員会のようなところから調査員がやってきます。

かなり高圧的な人物です。テオたちは有名なサッカー選手への追悼だったと言い逃れようとします。調査員はその死亡をどこで知ったのかと問いただします。生徒の一人がRIASのことをもらし、パウルのおじさんは逮捕されます。

ことはさらに大事になり、教育大臣までやってきます。大臣はガチガチの社会主義者です。生徒たちを前に、一週間以内に首謀者が誰かを言わなければ連帯責任で全員卒業試験は受けさせないと厳命します。

という物語で、その間にクルトとテオとレナの恋愛関係も絡み、それぞれの心の揺れが描かれていきます。で、ラスト、生徒たちは集団で西ドイツへ逃亡する決断をするわけです。

この連帯責任ってやつ、人間にとって一番の精神的拷問です。個が引き裂かれます。個人の決断がその個人で完結しない、自分の判断がまわりに人間にまで影響を及ぼす、映画に関連させていえば、その後東ドイツに蔓延ったといわれる監視社会、密告社会、「善き人のためのソナタ」の始まりです。

さらに深読みすれば、そもそもの発端となっている黙祷ですが、あれ、多数決ですので、反対した者まで巻き込んでいます。監督にそこまで意識がいっているかどうかはわかりませんが、本当に人間社会は難しく、個と集団、公と私、永久に解決しない不条理ということでしょうか。

話を映画に戻しますと、この映画、そうした問題とともに、クルトやテオの親の世代が持つ過去、ナチスという存在への関わりによる屈折した感情がかなり大きく扱われています。

黙祷に反対したエリックは、母親とその再婚相手の神父(牧師?)と暮らしていますが、実の父親は社会主義者であったためにナチスにより殺害されたと教えられて育ってきています。実の父への思いは強く、それゆえに黙祷に反対したということでもあります。しかし、実際は、転向しナチスに協力、おそらく仲間をうったのでしょう、戦後に社会主義者たちに殺害されたのです。

調査員からその絞殺現場の写真を見せられたエリックは、パニックに陥り、たまたま射撃練習の授業中だった教師をピストルで射殺してしまいます。家に戻ったエリックは母親に詰め寄ります。神父の夫から本当のことを言うべきだと促された母親は「お父さんは弱い人だった」ともらします。

また、その写真にはクルトの父親も写っています。エリックの父親を絞殺する社会主義者たちの間からおどおどと顔を覗かせています。クルトの父は、現在、市議会の議長(だったと思う)の職にあります。おそらく、自分のそうした弱さへの後ろめたさや妻の父がナチスに属していたことの引け目からの裏返しだと思いますが、常日頃から妻を罵倒したり、強圧的な言動をしています。

調査員がクルトの家にやってきます。クルトの父の立場を考慮して、黙祷の首謀者を、どうせ教師殺害で何年も服役することになるエリックにしようと持ちかけます。父親はクルトにそうしろと言います。 母親はそっと「逃げて。戻ってこないで」とささやきます。

テオの父親は製鉄工場のかなり過酷な労働現場で働いています。それもあり、テオの将来に期待をかけています。映画はあまり明確に語っていませんが、父親は1953年の民衆蜂起(東ベルリン暴動)に参加した際に教育大臣に救われ現在の職を得ているようです。

後ろめたさも強いのでしょうが、思い切って教育大臣に息子の許しを請いにいきます。しかし、けんもほろろ、断られます。父親はテオを問いただし、クルトが言い出して多数決で決めたと答えるテオに、お前がクルトだと言え!と言い放ちます。

こうした親たちの人物造形が映画に深みを与えています。これがなければかなりベタな感動ものになっていたかもしれません。

そして、映画はラストです。

クルトは西ベルリン行きを決意し、テオを一緒に来ないかと誘いますが、家族を置いていけないと断られ、ひとりで向かいます。列車での検問、祖父の墓参りと答えますが怪しまれ降ろされます。父親が呼ばれます。父親はクルトの眼をじっと見つめ、「夕飯に遅れないように帰ってこい」と声を絞り出すのです。

学校では、調査員が、クルトが西ベルリンへ逃亡したと告げ、テオに、クルトが首謀者だなと認めさせようとします。しかし、テオは「皆で決めた」と答えます。調査員は、あなたは退学です、教室を出ていきなさいと命じます。続いて、パウロ、そしてレナに問いただすも、私がやりましたと譲りません。すると皆が次々に立ち上がり、私です、私ですと続きます。調査員は、教室は閉鎖します、全員退学ですと言い残して去っていきます。

そして、ほぼ全員が西ベルリン行の列車に乗るのです。

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