男はケーキにまみれて自らの過去に拘泥し、女は朝日にまみれて未来を思う
日本映画は大丈夫か? と思います。松居大悟監督までもが…とかなり心配になります。この手の恋愛映画、それぞれ若干趣きは違うにしても過ぎ去りし過去を引きずった感傷的恋愛映画が立て続けに送り出されています。
たまたま私が見たからなのか、何か時代を象徴したできごとなのか、たとえば新型コロナウイルスによる社会状況が影響しているのか、もう少し長いスパンの傾向なのか、たとえばロスジェネ世代が社会を担う中心世代になったことからなのか、とにかく感傷的で後ろ向きな恋愛映画が目立ちます。
ちょっと思い出しただけじゃない
映画なんですからそうせざるを得ないにしても、「ちょっと思い出した」だけではありません。照生(池松壮亮)も葉(伊藤沙莉)も未練たっぷりに引きずっています。
その引きずりを描いている映画に引きずっているからといってどうこう言っても始まりませんが(笑)、松居監督のこの映画はどこか言い訳っぽいですね。
誕生日に思い出すって引きずりの典型だと思いますが、それを「ちょっと思い出しただけ」などとごまかすなんて、あの「君が君で君だ」の突き抜けた恋愛観はどこへいってしまったのだと思います(笑)。
このところの恋愛映画を比べてみると
あくまでも私が見た「明け方の若者たち」「花束みたいな恋をした」「ボクたちはみんな大人になれなかった」、そしてこの「ちょっと思い出しただけ」の回想型恋愛映画の話です。
男の未練
「明け方の若者たち」と「ボクたちはみんな大人になれなかった」ははっきりとした男の未練の話です。「明け方の若者たち」の僕(北村匠海)は、彼女(黒島結菜)が既婚者であることを知ってつきあっており、彼女が夫のもとに去った時、何も言えずに悶々とする話です。
「ボクたちはみんな大人になれなかった」の佐藤(森山未來)は、ある日突然何も言わずに去った加藤(伊藤沙莉)のことが忘れられずにいます。確かFacebookで子どもを抱いた加藤の写真を見つけてしまうということだったと思います。
「花束みたいな恋をした」は同じような回想型には見えますがかなりトーンが違います。麦(菅田将暉)も絹(有村架純)も懐かしくは振り返っても未練があるようには描かれていません。そもそも別れることを決めてから3ヶ月も一緒に暮らしたということなんですから、熟年離婚みたいなものです。これは脚本が1990年前後に流行したトレンディドラマを書いてきた坂元裕二氏によるものだからでしょう。
で、この「ちょっと思い出しただけ」はどうなんでしょう?
6年間のある一日を定点観測
感傷的ではあっても未練とはちょっと違う感じがします。そもそもこの映画は6年間のふたりのある一日を定点観測しているだけですので、他の映画のように濃密なふたりの関係が描かれてはいません。むしろすれ違うふたりの関係が強調される結果になっています。
思い出せる限りですので間違っているかもしれませんが、現在から6年間をさかのぼってみますと、
- 今
タクシードライバーの葉(伊藤沙莉)はたまたま劇場のステージ上の照生(池松壮亮)を見るが、照生は葉に気づかない - 1年前
葉は今日が誕生日だという女性客を乗せ、照生は照明技師として働いており会うことはない - 2年前
葉は合コンに誘われ後に夫となる男と出会い、照生は足の怪我からダンサーの道をあきらめている - 3年前
葉が照生に、なぜ気持ちをぶつけてくれないの、頼ってよと迫るが、照生は足の怪我から今の自分は人生の岐路なんだと言い、話が噛み合わない - 4年前
ふたりの絶頂期か、商店街でふたりが踊る(ここは水族館だったか?) - 5年前
葉が照生の舞台を見に行き照生と出会う(ここで踊ったか?)
おおよそこんな感じで現在から過去にさかのぼっていき、最後に再び現在に戻り、タクシードライバーの葉がトイレに行きたいという客を降ろしたところが劇場の前であったため、ふと葉が車を降りて劇場の中に入ってみると、終演後の舞台で一人照生が踊っています。葉はそのまま車に戻りますが、おそらく客は劇場でトイレを借りたのでしょう、外に出てきた照生はドライバーが葉とは気づかず客の乗ったタクシーを見送ります。
そして、照生は行きつけのバーでオーナーやそのパートナーから誕生日ケーキで祝福され、一方、早朝、家に戻った葉がベランダでタバコを吸っていますと、乳児を抱いた夫からケーキを食べるかと尋ねられます。ケーキは葉が買ってきたものなんでしょう。
ノスタルジック
ということでいいますと、この「ちょっと思い出しただけ」では葉の未練がより強調されているようにも見えます。ただこれは、言い換えれば男の強がり、あるいは松居監督の未練の裏返しでしょう(笑)。
ということで、この映画はかなり感傷的な映画ではありますが、未練という意味では「明け方の若者たち」や「ボクたちはみんな大人になれなかった」よりも「花束みたいな恋をした」のようなある種の客観性があります。ノスタルジックという方がいいのかもしれません。
そもそもこの葉と照生は結局はうまくいかないふたりという設定なのかもしれません。見ているものが違うふたりといいますか、葉の方はタクシードライバーが好きだからやっていると言い、その訳をどこかわからないけれどもどこかへ向かっていることが好き、だから客に行き先を指定されある目的地へ向かうけれども、それは最終的な目的地ではないという状態が好きといっています。ある意味人生に対してクリアな人物です。
一方の照生はダンサーというある目的を持ちながらも怪我によって挫折し、むしろそのことを引きずっている人物で、葉の求めに対してもいま自分は大変なんだからと葉を突き放してしまいます。突き放すつもりはないにしても、ある種、男(日本限定?)に多い自己中タイプです。
あわないですね、このふたり。
ということからいけば、この映画は恋愛の濃密な時間を描くことよりも、人の人生が出会いと別れの繰り返しであることを描こうとしているようにも見えてきます。その点から映画を思い返してみれば、永瀬正敏さん演じる妻を待つ男も、行きつけのバー「とまり木」(え?とまり木って昭和か?)のマスターのパートナーとのことも、同じ意味で人生における出会いと別れが反映されているのかもしれません。
葉のラストカットは朝日が上り始めた誕生日の翌朝です。クリープハイプの「ナイトオンザプラネット」が流れます。
夜にしがみついて 朝で溶かして
(クリープハイプ「ナイトオンザプラネット」)
何かを引きずって それも忘れて
だけどまだ苦くて すごく苦くて
結局こうやって何か待ってる
ナイト・オン・ザ・プラネット
公式サイトによれば、この映画は、尾崎世界観さんがジム・ジャームッシュ監督の「ナイト・オン・ザ・プラネット」に着想を得て書き上げた曲「ナイトオンザプラネット」をもとに松居監督がオリジナルストーリーとして書き上げたものだそうです。
そのものズバリで、葉と照生が「ナイト・オン・ザ・プラネット」をDVDで見るシーンがありますし、タクシードライバーである葉を捉えるカットもそうでしょうし、葉のタバコもやや違和感があるにしてもロサンゼルスパートのコーキーからのものでしょう。
永瀬正敏さん演じる妻を待つ男が公園のベンチで座っているシーンの繰り返しもどことなくジム・ジャームッシュっぽく感じます。永瀬さんが出演していることからかもしれませんが「パターソン」を思い出します。
そもそもの6年間のある一日を定点観測するそのこと自体にもジャームッシュっぽさを感じます。
未練という言葉は撤回しておこう
未練という言葉は撤回しておいたほうがよさそうです。
きっと時々は「ちょっとだけ思いだ」すのでしょうが、それはそれ、過ぎたことだと懐かしむ今があるということかもしれません。ただし、それも葉だけのこと、照生が朝日を見る日は来ないような気がします(ペコリ)。