意地を張れば角が立つ、箪笥をあければ愛がある(?)
シルヴィア・チャンと聞いて思い浮かぶのは「山河ノスタルジア」のオーストラリアシーンの中国語教師くらいで、出演映画の一覧をみれば、ああ見たかもしれないと思うものもありますが、私にはあまり印象強くない俳優さんです。
この「妻の愛、娘の時」は監督、主演ということです。
それにしても、「妻の愛、娘の時」とは意味不明な邦題ですね。原題は「相愛相親」、英題は「Love Education」。字面からいけば「互いに相手を親しく思う」というような意味だと思いますが、この映画を単純化してしまえば、意地を張れば相手も意地を張り、思いやれば相手も思いやってくれるということかと思います。
意地の張り合いの中心人物はフイイン(シルヴィア・チャン)、相手は、亡くなっている父の最初の妻ツォン、そして、フイインの娘ウェイウェイとの間にも、まあ親子であれば普通かなと思う程度ですが意地の張り合いみたいなところがあります。そんなフイインの意地が解かれるきっかけをつくるのが夫のシアオピンという、そういう物語です。
フイインは定年間近の中学校(くらいの)教師、シアオピンは自動車教習所の教官、そしてウェイウェイはテレビ局で働いています。
フイインの母が亡くなります。フイインは母を父の墓に入れたいと、父の眠る故郷を訪れ、墓を自分のもとに移したいと考えます。ところが、父には母と一緒になる前に結婚していた最初の妻ツォンがいて、父の墓を守っています。フイインはお金を使って無理やり墓を移そうとします。
無茶苦茶勝手ですわね(笑)。
当然、ツォンはもちろんのこと、村中が反発します。この墓争いが軸となって物語は進みます。 ツォンにしろ、フイインの母にしろ、多くの混乱の時代を経てきているわけですから、婚姻届はもとより、そもそも役所自体に記録など残っていません。1970何年でしたか、それ以前の記録はないというようなことを言っていました。文革でしょうか。
そもそもなぜこういう問題が起きているかはこういうことのようです。
フイインの父の故郷は貧しい地域らしく、ツォンと結婚はしたものの、生活が苦しく、結婚後半年くらいで父は町へ出稼ぎに出たとのこと、そこでフイインの母と出会い、一緒に暮らすようになったのです。結婚などというものには、たとえば、行政サービスや相続などで社会制度の保護を受けたいと思わなければ、結婚、同棲、付き合うなど一連の男女関係に違いなどまったくないわけですから、ツォンに別れようと言っていない限り、ツォンにとってみれば夫婦関係は成立していますし、一方のフイインの母にしても、長年連れ添ってきているわけですから、どう考えても夫婦でしょう。
話が妙な方にいってしまいました(笑)。
とにかく、自分の母が妻だ、私が妻だと意地の張り合いが最後まで続きます。
もうひとつ軸となる物語は娘のウェイウェイで、ウェイウェイにはミュージシャンのアダーというボーイフレンドがいます。アダーは、ミュージシャンとしての成功を胸に北京へ出ようとしていたのですが、その途中、ウェイウェイと出会い、恋に落ちて、この街のクラブで歌っています。
アダーは、ウェイウェイに一緒に北京へ行こうと誘っていますが、本人の意志なのか、フイインの反対があるからなのかはよくわかりませんが、断っており、アダーもウェイウェイへの思いを断ち切れずとどまっているという状態です。
ウェイウェイはテレビ局に勤めており、たまたま最初の墓騒ぎに同行した際の顛末を動画に収めたがために、フイインとツォンの争いがテレビ番組の題材にされることになります。
映画の流れとしては、このテレビ番組の話があまり整理されておらず、ウェイウェイがどういう立場にあるのかとか、フイインもプライベートなことをと抵抗はするもののなんとなく巻き込まれてしまったりとか、よくわからないままに番組化されてしまいます。
整理されていないことは他にもいろいろあり、夫シアオピンが教習所の生徒である女性に優しいがゆえにフイインがちょっとばかりムッとしたり、フイインの生徒でやんちゃ(だからなのかな?)な子どもがいることでどうこうとか(これは全くよくわからない)、アダーのミュージシャン仲間であった女性が子供連れで訪ねてきて、ウェイウェイがアダーの子どもかと嫉妬したりとか、ウェイウェイとアダーがツォンのもとを頻繁に訪ねて親しくなったりとか、物語に厚みを加えているのか、焦点を曖昧にしているのか、よくわからない状態ではあります。
こうしたあれこれいろんなものが漠然とある状態を一気にラストへと転換させるのが、夫であるシアオピンのフイインへの感謝の手紙です。
長年連れ添っているがゆえに、相手への何か(言葉にすると陳腐なので)を忘れてしまっているフイインとシアオピンです。フイインの定年を機に、ちょっとしたことですが、感謝の言葉を手紙にしたためます。また、結婚した頃に約束したことを実行しようとします。間違っているかもしれませんが、二人だけでドライブに行こうということだったらしく、シアオピンは新車を買い、フイインをドライブに誘います。
車の二人、このシーン、結構よかったのですが、台詞はあまりはっきり記憶していません。
若いころ、約束したじゃないか。このままドライブにいくか、私を捨てれるかどっちだ?
こんな感じだったと思います。
フイインは、はっとします。実は、フイインも、最近よく夢を見ており、ある男性がよく出てくるのですが、それが誰だかわからなかったのです。フイインは、それがシアオピンだと、やっと気づくのです。
問題が一気に解決に向かいます。
フイインは、母の遺骨を父の故郷の墓に納めることを決心し、また、ツォンもまた、夫の墓をフイインのもとに移すことを受け入れます。
アダーが北京へいくことを決心します。一緒に行こうとしないウェイウェイに、フイインが、何と言ったか台詞が思い出せませんが、一緒に行かないと後悔するといった意味合いだったと思います。
こんな感じの映画で、あまり印象に残るシーンもなくぼんやりしたものだったのですが、本当に、人間というものは、自由になりたいと願いながらも、そう簡単には自由になれない存在なんだなあと、あらためて感じたわけです。