幻ではないアイヌを知り、アイヌを知るきっかけにするこのところ俳優で持っている映画ばかり見ている気がしています(笑)。
この映画ではカントを演じている下倉幹人くん、その澄んだ眼には差別や同化といった対立視点ではない今生きているアイヌの苦悩が反映されています。
もちろん幹人くんは俳優ではありませんし、その他ほとんどの出演者がアイヌコミュニティの人々の映画です。ただドキュメンタリーというわけではなく、また、それっぽくしようとしているわけでもなく、きっちりドラマとしてつくられています。
アイヌ語仮名表記
タイトルの「アイヌモシㇼ」の「ㇼ」が小さい文字になっているのはアイヌ語仮名表記だからです。Windowsの文字入力では変換されませんが、Microsoft IME であれば「31FC」と打って「F5」を押せば変換されます。
発音は北海道新聞のサイトに動画付きの講座があります。
ちなみにアイヌモシㇼの「モシㇼ」は大地という意味らしく、アイヌモシㇼとはアイヌの大地であり、「カムイモシリ(カムィモシㇼ(kamuy mosir)、神々の住まう地)やポクナモシリ(アイヌ語仮名表記:ポクナモシㇼ、あの世・冥界)との対比においては「人間の地、現世」を意味する(ウィキペディア)」とのことです。
大地そのものではなく、抽象的に空間であるとか領域と理解したほうがいいかもしれません。
ネタバレあらすじとちょいツッコミ
14歳のカント(下倉幹人)は、阿寒のアイヌコタンでアイヌ民芸店を営む母親のエミ(下倉絵美)と暮らしています。父親は一年前に亡くなっています。
多分一周忌だと思いますが法要のシーンがあり、僧侶ではなくコミュニティのおばさんが般若心経を唱えていました。カントの家には常時仏壇もありましたし、実際に仏式が多いのか、意図的なシーンなのか気になります。
カントと母親が学校の進路相談を受けています。カントの希望ははっきりしていませんが、アイヌコタンではアイヌのことをやらされることにやや抵抗を感じているようです。母親は強制はしていないじゃないと答えています。
カントは友人たちとバンドを組んでいます。カントがチャック・ベリーの「Johnny B. Goode」を歌うシーンがあります。
幹人くんは実際に「GREEN Bou Grinbo(グリンボウ グリンボ)」というバンドでギターとボーカルを担当しているようですが、こんな渋い曲をやっているんでしょうか? たぶん演出でしょうね。
大人たちの間ではイオマンテを復活させようとの話し合いが持たれています。
「イオマンテ」とは、一般的に「飼い熊の霊送り儀礼」を指す言葉として知られています。春先のヒグマ猟で、母熊と共に生まれたばかりの子熊を手に入れると、人々はカムイから養育を任された名誉あることと考え、授かった子熊を大切に育てました。そして1~2年ほど飼育した後には、その魂をカムイモシリ(神々の世界)へ送り帰す盛大な儀礼が、集落をあげて営まれてきたのです。
イオマンテは、カムイを敬い、日常生活の中で常にカムイの存在を意識してきた人々が、たくさんのお土産を持たせてカムイ(子熊)の魂を送ることでその再訪を願い、食料の安定供給を求めるという、アイヌにとって最も重要な伝統儀礼のひとつです。
明治以降は同化政策による生活環境の変化などにより、次第に行われなくなりました。(公益財団法人アイヌ民族文化財団)
復活を強く主張しているのはデボ(秋辺デボ)です。様々な意見が出ます。アイヌのアイデンティであるとの意見もあれば、すでにアイヌは観光になっている、イヨマンテをやれば風評被害になるとの反対意見も出ます。
この話し合いのシーンはかなり自然に撮られています。実際にどういうアイヌのコミュニティがあるのかはわかりませんが、イオマンテを行うとしてどう思うかというような撮り方がされているのでしょう。ですので、映画の中ではイオマンテが行われることになりますが、話し合いが喧々囂々になることはありません。
デボがカントを森へ連れ出します。森へ入る際には安全祈願のアイヌの儀式を教え、その奥には死者の住む世界があるという洞窟へ連れていきます。夜、焚き火の前では、フクロウを見たことはあるかと尋ね、動物園でと答えるカントに、本物のフクロウの目はそんなものとは違うぞと語ります。そして、檻につながれた子熊を見せ、面倒をみてみるかと尋ねます。カントは目を輝かせてやりたいと答えます。デボは誰にも言うな、秘密だぞと言います。
カントが子熊の面倒をみるシーンとともに観光地としてのアイヌコタンの日常やカントの日常が描かれていきます。
アイヌコタンのシーンで店に来た観光客に日本語うまいですねと言わせていましたが、ちょっとやりすぎです。問題はそこじゃないでしょう。
子熊に餌をやろうとやってきたカントはそこで餌を与えているおばさんに出会います。カントがデボは秘密だと言っていたのにと尋ねますと儀式のためにみんなで面倒をみることになったと答えます。
デボを問い詰めますとイオマンテのためだと答えます。カントは混乱します。
そして(半年後か1年半後の)冬、イヨマンテの夜、母親やデボの誘いにもカントは出てきません。そして、ひとり森へ向かいます。その向こうに死者の世界があるという洞窟の前、ふと振り向きますとそこには父親が立っています。カントは父親にしがみつきます。
イオマンテが行われています。
阿寒のアイヌコタンでは「イオマンテの火まつり」というイベントが行われているようです。映画でもイベントっぽいシーンが使われていましたが、儀式としてのイオマンテは十数人のアイヌの人々だけで行っているシーンになっています。子熊に矢を射るシーンは、カントが過去のビデオを見るシーンで表現されています。
そして、熊の肉を食する宴(でいいのかな?)の席にカントも静かに入ってきます。
(前後の記憶がはっきりしませんが)カントが森に入っていきます。カントが立ち止まりますとその先の木に止まったフクロウがカントをじっと見つめています。
アイヌの神話ではシマフクロウの姿の神を「コタン コロ カムイ」というそうです。
アイデンティティと自由
北海道の調査ではアイヌ民族の人数が2017年までの10年余りで4割以上減ったとの報告もあります。
また、2008年の少し古い調査ですが、
アイヌであることの意識については、「まったく意識しない」者が 2,486 人(48.0%)にのぼるが、他方で「常に意識している」者は 712 人(13.8%)、「意識することが多い」者は 592 人(11.4%)である
という北海道大学の報告もあります。おそらく現在ではアイヌであることを意識している人はもっと少なくなっているでしょう。
もちろんそれは明治以降日本政府が行ってきた同化政策が招いたものですのでそれを知らずして何かを語ることに意味はありませんが、この映画はその点でいえば、アイヌコミュニティの一員でありながらそこにある種の違和感を持つ人物としてカントを位置づけているためにかなり現実感のある映画になっています。
大人たちにしても、アイヌ語を講師から学んだり、イオマンテでもカンペを見ながらじゃないと出来ないという描き方がされています。
カントが通う中学の授業や同級生たちと遊ぶシーンもありますが、意図してなのかどうかはわかりませんがアイヌはカントひとりとして描かれています。
この映画には目に見える差別というものは描かれていません。ただ、カントはここから出ていきたいという理由にここは普通じゃないと言っているわけですから目に見える差別ではないにしても他者の目を意識していることになります。
わりと多くの人が思春期には自分の属するコミュニティに違和感を持ちそこから抜けたいと思うものではないかと思います。それはコミュニティが小さければ小さいほど、つまりマイノリティであればマイノリティであるほどその意識は強くなります。
何を言おうとしているのか自分でもわからなくなってきましたが(笑)、アイヌがそうしたところまで追いやられ、また追いやってしまっていることと、この映画がそこに視点を置いていることから現実感のあるとても見やすいものになっており、この映画を見てアイヌのことを知ろうとするきっかけになる人も多いのではないかと思います。
誤解を恐れずに言えば、民族アイデンティティを意識することなく自由に生きる世界こそが理想だと思います。