「ゴモラ」のマッテオ・ガローネ監督、カンヌ主演男優賞、パルム・ドッグ賞
なかなか掴みづらい映画でした。
「ゴモラ」のマッテオ・ガローネ監督の最新作ですが、その後の「リアリティー」は劇場公開されず、「五日物語 3つの王国と3人の女」は毛色の違うファンタジーで、これを劇場公開するのなら「リアリティー」もしてよというような出来でしたので、ちょっとばかり期待の「ドッグマン」でした。
基本的な物語は、トリミングサロンを営む男が、日々暴力によって従属させられている男に復讐を決行するという話です。
で、何が掴みづらいかといいますと、この物語をリアルに、つまり一般社会のこととして描こうとしているのか、あるいはごく限られた特殊な社会のこととして描こうとしているのかがわからないのです。
一番はロケーションです。舞台となっている空間は明らかに廃墟です。
実際にロケ場所となっているのは、ナポリの北西約35kmにある Castel Volturno, Caserta, Campania, Italy という町にある Villaggio Coppola という、1960年代に建設された違法建築の住宅団地で、現在はアフリカからの移民や貧困層が暮らしているそうです。
I luoghi di Dogman, il film di Matteo Garrone girato in provincia di Caserta | SiViaggia
このサイトにそれらしき建物の画像があります。
映画は、その廃墟をそのまま映画の舞台として使っています。その廃墟イメージをそこだけの空間として、つまりその廃墟の外にはまた違った社会が存在していることをイメージさせようとしているのか、あるいはそうではなく、崩れ行く社会といった概念の延長線、つまりその廃墟の外も同じように廃墟なんだと言いたいのかが全くわからないのです。
廃墟なのに、そこで描かれる生活感は廃墟らしくありません。
あの場で営むトリミングサロンにどんな客がくるのだろうと考えてしまいます。他にもいろいろ店があり、サロンを営むマルチェロ(マルチェロ・フォンテ)が町の仲間たちとレストラン(廃墟の一角)でランチをするシーンもあります。また、これが事件のもととなるのですが、サロンの隣には金の買取をやっている店まであります。
トリミングサロンもそうですが、廃墟で金の買取屋をやろうと思う者はいないでしょうから、やはりこの映画は、廃墟からイメージされるある閉ざされた空間、社会の暗部のようなものをイメージしているのではないのだろうと思われます。
ですので、ガローネ監督は、この映画をリアルなものとして描こうとしていないということになり、どうしても、(私には)描かれる物語のリアルさとの違和感が先に立ってしまいます。
違和感は、マルチェロとシモーネ(エドアルド・ペーシェ)の関係にも感じます。最初に二人の関係を暴力による主従関係と書きましたが、実は一概にそうとも言えず、マルチェロはコカインの売人のようなことをやっており、それをシモーネに売っています。暴力的にコカインを奪っていくようなシーンのみが描かれますが、関係は長く続いているわけですから、少なくともマルチェロは利益を得ているはずです。暴力によって貢がされているようには描かれていません。また、無理やり強盗の片棒を担がされるシーンもありますが、少ないにしても分け前をもらい換金もしています。
つまり、マルチェロはさほど善良で心優しい人物ではないということです。
ある時点までは、この二人の関係を日常的ないじめからくる依存性の高い主従関係かと思い、人間への暴力が人間の根底にある(かもしれない)暴力性を呼び覚ますような話かと考えていたのですが、どうやらそうではなさそうです。
ある日、シモーネがマルチェロに、サロンの壁をぶち抜いて隣の金の買取屋に強盗に入ることを持ちかけます。そんな素人の手口、ばれるに決まっていますし、マルチェロは隣の持ち主や他の住人たちと仲もよく暮らしていますので協力を拒みます。しかし、シモーネの暴力の前にあえなく店の鍵を貸すことに同意してしまいます。
そして、強盗事件は起き、マルチェロは警察の事情聴取を受け、シモーネに鍵を貸しただけか、自分がやったことかと二者択一を迫られます。警察には、後者を選べばすべてを失い町で生きていけないぞと迫られますが、マルチェロは自分がやったこととして、一年服役します。
この展開のリアリティーのなさに、何をどう考えてこうしたのか全くわかりません。極端な言い方をすれば、これはコメディのパターンです。マルチェロの選択はともかく、少なくとも先進国(G7の一員)の法的処理としてはありえないです。
何はともかく、刑務所のカットがワンカット入り、すぐに一年後とスーパーが入りマルチェロが出所してきます。マルチェロは、再び同じ場所で、今度はドッグホテル(なのかな?)として再建を目指し宣伝のチラシを配ったりします。
と同時に、シモーネに強盗の分け前を要求しにいきます。1万ユーロを欲しいと言っていました。
何だ、罪をかぶったのは、シモーネの暴力に屈したというよりも、金が欲しかったということなのか、という気もしてきます。
いずれにしても、シモーネがありがとうと言って金をくれるわけもなく、追い返されたマルチェロはシモーネのバイクを鉄パイプ(のようなもの)で滅多打ちにします。当然、仕返しにマルチェロはボコボコにされます。
このあたりのマルチェロを見ていますと、シモーネの暴力に対する怯えであるとか、恒常的ないじめによる心身の硬直化のようなものは感じられません。ですので、ふたりの間の関係は主従関係ではなく、むしろ対等なのではないかと思えてきます。
さらに、その後マルチェロが取った行動はそれを裏付けています。
マルチェロは、コカインの取引を口実にシモーネを店に呼び出し、犬の檻に閉じ込めてしまいます。冷静な計画のもとにです。
で、拉致したシモーネをどうするかといいますと、じりじりと責め苛んだり、拷問的なことをするわけでもなく、ただ金を要求します。
これ、一般的に考えれば仲間割れですね。
シモーネは檻の中でも暴れまわり檻を壊して出てこようとします。マルチェロは鉄パイプで頭を殴りつけます。
場面変わり、気を失ったシモーネの首に鎖(犬のトリミングにあんな物を使うんですかね)が巻きつけられています。目覚めたシモーネと再び争いになり、今度はマルチェロが、鎖に繋がれたままのシモーネに首を絞められます。マルチェロは逃れるためにシモーネが乗っているリフトの昇降装置を下降させるペダルを踏みます。シモーネは首をつった状態で死にます。
シモーネの死にマルチェロの計画的な意思は感じられません。不可抗力、あるいは防衛のためと言えなくもありません。つまり、マルチェロの人物像は、見た目、暴力による強制的なものがあるにはあるのですが、基本、意志が弱く、強いものの言いなりになる人間で、それが悪事であろうと、自分の得られるものがあるならそれを得ようとする小物的な人物で、仕返ししてやろうと行動を起こしてみたものの、そこには復讐の狂気のようなものがあるわけではなく、成り行きで殺してしまったということだと思います。
マルチェロは、シモーネの死体を海辺の草むらに運び火をつけます。その時、いつも町の住人たちとサッカーに興じていたコートから歓声が聞こえてきます。駆けつけたマルチェロは皆に「やったぞー!」と叫びます。
この「やったぞー」は、書いていませんが、そもそもシモーネは町の誰もが手を焼く人物で、レストランの主を殴りつけた時に、殺し屋に頼もうという意見まで出ていたということからです。
「やったぞー!」と叫んだマルチェロですが、その声を聞くものは誰もいなく誰も集まってきません。マルチェロが見た幻です。
マルチェロは燃える死体まで戻り、必死に火を消し、死体を担ぎ、町(廃墟)へ戻ります。広場(かな?)で立ち止まったマルチェロは、死体をおろし、その場に立ちすくみます。マルチェロの表情を捉えて映画は終わります。
映画は、その様子に何の説明も加えていませんので、どう取るかは見るものの自由ですよということなんでしょう。
行き場のない自分を実感し呆然と立ちすくむというのが自然かと思います。
娘への愛情表現のシーンが幾度も出てきますし、娘とともに参加したトリミングコンテストで賞を獲得するほのぼのシーンや、強盗に入った先で冷凍された犬を救い出したりするシーンを入れているのは、マルチェロがごく普通の人物であり、多くの人が両面を持っている、その善的な一面の表現なんでしょう。
廃墟イメージとそこで進行するドラマに、最後まで違和感が消えない映画でした。