グッバイ・クルエル・ワールド

タランティーノ風ヤクザものごった煮生煮え版

西島秀俊、斉藤工、宮沢氷魚、玉城ティナ、宮川大輔、大森南朋、三浦友和、奥野瑛太、片岡礼子、奥田瑛二、鶴見辰吾

グッバイ・クルエル・ワールド / 監督:大森立嗣

ある企画会議で

A:次の映画の企画、ヤクザものってのはどうっスかね?
B:ヤクザものじゃ東○さんには勝てんだろ。「孤狼の血」の上いけるか?
A:じゃ、タランティーノ風ヤクザものってのはどうです?
B:風もなにも、タランティーノ本人がヤクザ映画オタクだろうが。
A:いや、それを逆手にとってギャフンと言わせるんですよ。
B:お前、ギャフンってなあ…。
C:ちょっと待ってください。暴対法後のヤクザがどうするかに焦点を当てればいけるかもですよ。
B:「ヤクザと家族 The Family」でやってんだろうが。
C:あれはジメジメしすぎてます。もっとカラッとしたクライムアクションで、暴対法でやっていけなくなったヤクザが表ではいい人なのに裏では強盗やってるみたいなやつですよ。
B:うーん、まだなんか足りないねえな。若者に受けないだろ。
C:じゃあ、ラブストーリーも入れましょう。ボニー&クライドみたいな、そういやあ、タランティーノに「トゥルー・ロマンス」ってのがあって、監督はトニー・スコットなんですけど、これ、ボーイミーツガールで女が娼婦ってやつで、タランティーノのシナリオでは最後に二人とも死んじゃうんですが、トニー・スコットが変えちゃって、タランティーノは無茶苦茶怒ったってやつなんです。これも入れちゃいましょう。
B:いやー、実はなあ、オレ、ウォン・カーウァイが好きなんだよな。なんか入れられねえか。
C:大丈夫っスよ。大丈夫、何でも入れちゃいましょ。音と画で切ない感じにすればウォン・カーウァイになりますって。
B:そうだな、そうだな。なる、なる、なるな。よし…
D:あのう…
B:何だ?
D:ちょっと能天気過ぎやしませんかね? 社会問題もちょって入れたほうがよくないスか?
B:社会問題か…そうだな、やっぱ今の時代、社会問題は必須だな。よし! 決定!

ごった煮の生煮え

ということで出来上がったこの映画ですが(笑)、ごった煮といいますか、確かにタランティーノは意識されているとは思いますが、それだけじゃなくこれまでの映画のドラマパターンや人物像の寄せ集めでつくられています。

安西(西島秀俊)、元ヤクザの幹部で、暴対法や悪徳刑事(大森南朋)のせいで組が潰れ、その後堅気になろうとするもうまくいかず、温泉町の旅館を買うための金を手に入れようと強盗団に入ります。

萩原(斉藤工)、この人の人物背景はよくわかりません。というか考えられていないでしょう。半グレみたいな感じでしょうか、一番暴力的です。強盗は常習のようで、この強盗ばなしの中心人物です。

浜田(三浦友和)、元全学連、元政治家秘書、その後コンビニ経営者となり、本部の取り立て(ロイヤリティ)に不満があり現在はやめており、世の中に恨みを持っています。

この3人がどこでどうつるんだかは不明ですが、ヤクザの裏金(オレオレ詐欺)を盗みます。

ヤクザ側は、名前不明の幹部(鶴見辰吾)と悪徳刑事の蜂谷(大森南朋)で、ヤクザも今はオレオレ詐欺で稼ぐしかなく、その金を強盗団に狙われます。強盗団に情報をもたらしたのは、矢野(宮沢氷魚)経由、美流(玉城ティナ)経由、美流の男経由、そして萩原です。

話の基本的な軸となっているのは、蜂谷が強盗団を探し出していくことであり、その過程で矢野と美流の刹那的虚無的なラブストーリーがもう一つの軸として表に出てくるというつくりです。

矢野と美流のラブストーリーは、矢野はラブホテルで働いており、そこを使ってセックスワーカーをしている美流に思いを寄せることから始まります。オレオレ詐欺のお金はそのホテルの一室に集められます。ですので、矢野、美流、美流の男、萩原と情報が伝わったというわけです。

で、鶴見辰吾(役名がわからない)が蜂谷に命じて強盗団を調べていくわけですが、わりと早く、矢野と美流のことがわかり、その辺りから矢野と美流が軸になって進み始めます。矢野はすべてに絶望しているようなニヒルな男です。

宮沢氷魚さんと玉城ティナさんにはこの役はちょっと難しかったようです。おそらくシナリオにもなにも書き込まれていないでしょう。この二人がうまくはまっていれば面白くなったかもしれません。

とにかく二人は散弾銃(みたいな銃)で萩原を射殺し、まわりにいる数人も容赦なく撃ち殺していました。なんかヤクザのたまり場の喫茶店ということらしいです。このシーンでももうちょっとからっとカッコよく撮れればなんとかなった映画だと思うんですが、そうはなっていなかったということです。

安西や浜田のシーンは中盤まであまりなかったように思います。安西は所属していた組が蜂谷と鶴見辰吾によって潰され、その後元ヤクザということで堅気になるにも苦労しています。安西のもとに元子分がやってきます。あれこれあり、町の住人に安西が元ヤクザだとばらします。安西は元子分を撲殺します。

浜田は政治家(秘書をやっていた政治家かな…)に恨みを持っており、スキャンダルを仕組み、これまたよくわからないけれども、そのことで動くだろう大金を安西に強奪させようとしますが、若者たちの集団(ヤクザの部下?)に襲われ安西は撃たれます。いや、撃ったのは矢野と美流だったか、とにかく、このあたりからはもうよくわかりません。死んだと思ったやつがまだ生きていたりします。

終盤はもう完全に集中力を失っていましたので、矢野と美流がどうなったかまったく記憶にありません。生きていました? 死んでいました? (笑)。

こんなことで笑っていてはいけない映画で、ラストシーンはさすがに死んでいるだろうと思った蜂谷と安西がともに生きており、なぜかばったり会って、二人で座り込み、もう疲れた、やってられないよとつぶやきながら、若者たち(あれ誰? ヤクザの子分? 半グレ?)に撃ち殺されます。カメラが空にチルトパンして二人を見えないところで2発銃声がしていましたので多分そうでしょう。

ごった煮はいいと思いますが、生煮えで食えないということです。

監督:大森立嗣、脚本:高田亮

大森立嗣監督、1970年生まれの52歳、脚本の高田亮氏、1971年生まれの50歳、「もう疲れた、やってられないよ」はバブル期に青春を過ごした50歳代の人たちの本音でしょう。

それにしても大森監督はこういう洒落た映像の求められるものは得意じゃないでしょう。いろんな映画を撮る監督ですのでなんでもやってみようということかもしれませんが、やはり「日日是好日」や「星の子」のような俳優の存在感を生かす映画にしぼって日本映画の伝統的な映画手法を深めていってほしいと思います。

脚本の高田亮さんは、私が見ている映画では「そこのみにて光輝く」や「オーバー・フェンス」の佐藤康志原作のものや「ボクたちはみんな大人になれなかった」の脚本を書いている方ですが、とにかく物語を昭和情緒にもっていこうとする脚本家です。この映画でも矢野と美流に結構出ています。

「パルプ・フィクション」が公開されたのが1994年、「恋する惑星」も同じく1994年です。ちなみにタランティーノ監督は「恋する惑星」を絶賛しアメリカでの配給権を得ています。

ということからすれば、この映画も「日本映画界の失われた30年」の一本かも知れません。