百花

映画は記憶の深層に到達しておらず…

川村元気さん、東宝のプロデューサーとして、私の見ている実写版の映画だけでも「電車男」「告白」「悪人」「怒り」「何者」「来る」「ラストレター」「キャラクター」などのヒット作(らしい)を担当し、アニメでも「君の名は。」や「天気の子」などに企画・プロデュース(ウィキペディア)として名前があがっています。その川村元気さんの初の長編監督作品です。

百花 / 監督:川村元気

狙いと映像処理のミスマッチ

母、百合子(原田美枝子)と息子、泉(菅田将暉)の物語です。百合子は一人住まいで認知症の兆候が出始めています。個人でピアノ教室をやっていますが、現在は生徒は一人と言っていました。泉は結婚しており妻の香織(長澤まさみ)は初めての子を妊娠しています。

ある年の大晦日(と後にわかる…)、百合子がピアノの前に座りトロイメライを弾いてます。カメラがパンしていきますとそこにも別の百合子がいます。さらにパンしますとやはり百合子はピアノに向かっています。ピアノの音が乱れます。

百合子が認知症であることを知って見ていますので、ああその表現なんだなあと思いながら見ることになります。

シーン変わって、その日の夜(と思われる…)、泉がその部屋にやってきます。部屋には電気がついていません。泉はかあさんと呼びながら電灯をつけるわけでもなく暗いまま家の中を探し回り、いないとわかるや、玄関から飛び出し、辺りを見渡しながら、やがて走り始め、そこが目的地であるらしい公園にやってきます。暗闇で百合子がブランコに座っています。

この暗さは演出でしょうし、さらに全編を通して単焦点レンズを使っているようですので常に背景はぼけています。暗い上にこの手法ではとても見づらいです。冒頭の百合子の認知症表現のシーンと同様の映像は他にスーパーとどこかの階段を登るシーンでも繰り返されます。

当然狙いは百合子の認知症を表現しようとしているわけですし、暗さや単焦点については正直よくわかりませんが、多分薄れゆく記憶を意識しているのではないかと思います。

映画の入りとしてはよくないですね。映画だけではなく何でもそうですが、最初のつかみは重要です。ああ認知症の表現なんだなと逆に映画そのものへの集中を阻害します。なぜ暗いのに電灯をつけないの?と疑問だけが残ります。

その後も疑問が残るシーンが続きます。

家に戻り、泉が電灯をつけますがそれでもかなり暗いです。テレビをつけますとニューイヤーコンサートが流れてきます。ふたりは互いにあけましておめでとうございますと言い合い、泉が出された食事を一口二口食べた時に香織から電話が入り、お母さんは?と尋ねられ、今はいないと嘘を言い、すぐに帰ると電話を切ります。そして、百合子には急な仕事が入ったと嘘を言い、食べかけの食事を残したまま飛び出していきます。泉が慌てて帰ったわけは、百合子が帰らないで(だったか記憶は曖昧だが…)と過去の男との世界に入り込み、泉を抱きしめたからです。

泉が百合子の認知症に気づいているかどうかが映画の中で定まっていません。泉は、公園に走り百合子を見つけたりしますし、昔の男と混乱していることがわかっているわけですから、なぜそのまま放って帰ってしまうのか疑問ですし、その状態で放置するほどのわだかまりがあるのならそもそも来ないでしょうし、認知症に気づくだけの交流もないと思われます。

失われる記憶とよみがえる記憶

百合子の認知性はアルツハイマー型ですので進行の度合いを遅らせることは出来ても治癒することはありません(現在のところは…)。失われる記憶とは書きましたが、正確には認知能力低下ですので、次第に泉が誰だかわからなくなったり、泉を過去の男と勘違いしたり、同じものを買い込んだりするシーンとして描かれていきます。

冒頭のシーンでリピートされる映像を認知症の表現と書きましたが本当は違います。スーパーで子どもに走ると危ないよと声を掛けることを繰り返し、何度も卵を買い、また階段を何度上っても同じ2階であるというのは、健常者の視点であって認知症患者の視点ではありません。実際、その認知症の表現との意図があったかどうかも定かではないのですが、ただ、画としては百合子の見ているものとして描かれていたのは間違いありません。

とにかく、あえて百合子の状態を記憶が失われていく状態とすれば、その過程で泉の記憶がよみがえるということがこの映画の軸となっているのだと思います。

二人のどちらかの回想ということではなく、時々過去の映像が挿入されます。泉が10歳くらい(と思う…)のころ、何シーンかは母子が仲睦まじく戯れるシーンが入るものの、ある時、泉が暗がりの中で電話を取り祖母に母さんが帰ってこないと訴えています。

その記憶が泉のわだかまりとなっているのですが、どうやら母親がいなくなったわけは今の今まで知らなかったようです。映画ですからいいんですが、現実的にはあり得ないです。ある日突然子どもを置いたまま男と駆け落ち(このケースもそう言うかな?)し、その後子どもは祖母のもとで暮らしたと考えられ、1年して戻ってきたのでじゃあ母親と一緒に暮らしなさいとなるにしても、現在30歳近い年齢になるまでそのわだかまりがありながら、母親が失踪した訳を知らないというのは、ドラマじゃなければ考えられません。これはドラマでした(笑)。

泉は百合子の家の片付けの際、1995年と記された手帳(日記帳)を見つけ、開いてパラパラとし、突然吐いています。事実を知って気持ち悪くなったということなんでしょう。映画ですから(笑)何をやってもいいのですが、もう少し考えたらと思います。

1995年の百合子がかなり長く描かれます。ピアノを習いたいとやってきた男(永瀬正敏)と関係を持つようになり、男が関西で大学教授の話があるから単身赴任することになったと聞き、後を追い男と暮らしていたということです。その結末は阪神・淡路大震災でつけていました。

なぜその年だけわざわざ年号入りの手帳に日記(かどうかはわからないが)をつけるの?とも思いますし、そのためにわざわざ古い友人を登場させて日記を盗まれたくないだの、さらにそのために警察まで出して空き巣がアルバムを盗むなどというわけのわからない話を持ち出していました。もう少し丁寧に描いたらと思います。

半分の花火

今あらためて思い出しながら書いていますと、川村監督の手法は、ぽんと浮かんだ発想をためておき、それをひとつのドラマに結びつけるためにあれこれ辻褄が合うようにドラマを考えているのじゃないかという気がしてきます。

オチになっている半分の花火もそうじゃないかと思います。

最初にそれが登場するのは、妻の香織が、お母さんから電話があり半分の花火が見たいといっていたよと泉に伝えることです。そして、映画が後半になり、百合子は施設に入るわけですが、その別れ際、百合子が半分の花見を見に行きたいと言います。帰りのバスの中で香織がネット検索で半分の花火あるよと言います。海上花火です。ググりますと関東では鎌倉の花火がヒットします。施設もそっち方面という設定なんでしょうか。

泉は母親を連れて花火を見に行きます。なぜ香織はいないんですかね、子育てと仕事で忙しかったんでしょうか。いや、泉と百合子二人のあの海辺のシーンが撮りたかったからでしょう。

そして、ラストシーン、半分の花火の本当の意味がわかります。久しぶりに母親を家に連れて帰ったんだったか、家の庭先の縁側に二人が座っています。泉は眠ってしまい、ふっと目が覚めますと辺りはもう暗くなっており、その時、突然花火が上がります。しかしその花火は向かいの建物で下半分が切れ上半分しか見えないのです。

泉に、子どものころ今と同じように母親と縁側に座って見た半分の花火の記憶がよみがえります。

才能ある監督の発掘に力を注いでほしい

川村元気さん、現在は東宝も出資している STORY inc. を立ち上げ、東宝からの出向という立場で映像作品の企画製作の仕事をしているそうです(ウィキペディア)。

経歴からすれば企画能力に優れているということになりますので、余計なことかとは思いますが、その企画力でなかなか陽のあたらない才能を発掘する方に力を注いでほしいものだと思います。