濱口竜介監督はこういうことがやりたいんだなあということがよくわかります。そして、無茶苦茶よく考えられていますし、うまいです。
余計なことをひとつ言わせていただきますと、「ドライブ・マイ・カー」も村上春樹氏の短編を短編として何本か集めて映画にすればよかったのにと思います。さらにもうひとつ余計なことを言いますと、村上春樹氏と濱口竜介監督のセンスは真逆だと思います。合わないです。
第二話の異質さが目を引く
3作品ともに1対1の対話によって映画に緊張感をもたらす手法で作られています。
「ドライブ・マイ・カー」の中でも使われていましたが、濱口監督の本読みは一切感情を入れない棒読みを何度も繰り返すそうです。そうすると言葉にまとわりついたベタな意味合いが消えて新鮮な言葉に出会えるということのようです。
実際にそうかどうかは体験しないとわかりませんが、この映画で言えば、第一話の「魔法」と第三話の「もう一度」は台詞が俳優のものになっていてよどみがまったくありません。それが映画として良い結果を生むかどうかは、どうでしょう…、私は若干の疑問を感じますが、でもまあ、見ていて気持ちがいいのは間違いありません。
で、気になるのは第二話の「扉は開けたままで」です。大学教授役の渋川清彦さんが一貫して感情を入れていない(ように聞こえる)棒読みで通しています。これはなぜなんでしょう? この映画を見てこれが一番気になります。
まさか、「ドライブ・マイ・カー」の高槻(岡田将生)のように、渋川さんが棒読み稽古にキレた結果ではないとは思いますが(笑)…。とにかくこの第二話はかなり異質に感じられます。
対話は基本的には相手のことを知りたいと思うことで成り立ちます。自分の言いたいことだけを言うのは対話ではありません。その意味では第一話と第三話はお互いに相手の気持を読もうとしている会話です。しかし、第二話は対話が成立していません。大学教授の瀬川(渋川清彦)は奈緒(森郁月)からの対話を拒否しています。
とにかく第二話が気になる映画です。
偶然が想像(創造)を生む
「偶然」という点でも第二話はちょっと違います。
第一話「魔法(よりもっと不確か)」
芽衣子(古川琴音)は、親友の(と呼んでいる)つぐみ(玄理)から、つい最近ある男性と不思議に気が合って15時間も話し続けてもまだ話し足りない気持ちが残り、相手の男性もまるで魔法のような出会いだと言っていると聞かされます。芽衣子はその話の途中からその男性が自分の元カレであることに気づきます。
これが「偶然」です。
で、この偶然が芽衣子の「想像」を生むかといいますと、実は想像よりも新しい関係を「創造」したくなってしまうという展開で、芽衣子はつぐみと別れたその足で元カレ(中島歩)のもとに向かいます。想像の前に行動してしまいます(茶化してゴメン)。
芽衣子と元カレの対話は、相手の気持の探り合いです。芽衣子はつぐみから元カレがまだ芽衣子のことが気になっていると聞かされています。芽衣子はつぐみから聞いたことを洗いざらい元カレに話してしまいます。元カレは芽衣子が嫉妬していると感じ、よりを戻したいと考えているのではないかと思い始めます。
この「魔法(よりもっと不確か)」はこのシーンが見どころです。古川琴音さんと中島歩さんの対話が面白いです。古川琴音さんは「街の上で」に記憶がありますし、中島歩さんは「いとみち」がとてもよかったです。
で、物語は、その後3人がたまたま会い、芽衣子がすべてをぶっちゃけてつぐみが去るという芽衣子の妄想と、実際は芽衣子が自分はそんな野暮じゃないと言って去る2シーンを見せていました。
「魔法よりもっと不確か」とは、芽衣子が自分のことを評した言葉です。
第二話「扉は開けたままで」
大学4年の佐々木(甲斐翔真)は就職の内定ももらっているのに単位が足りず卒業できません。教授の瀬川(渋川清彦)に土下座をして頼みますが、頑として受け入れられません。テレビ局の内定も取り消され留年です。
翌年、瀬川は芥川賞を受賞します。留年した佐々木には奈緒(森郁月)という互いにセフレと割り切る女性がいます。佐々木は瀬川の小説を呼んでいるという奈緒に、瀬川に対してハニートラップを仕掛けるよう持ちかけます。
奈緒は瀬川に受賞作にサインをして欲しいと言って近づきます。奈緒は教授室に入りドアを閉めようとしますが、「扉は開けたままで」と言われます。奈緒はあるページを開きここにサインがほしいと言い、さらにこの件が好きなんですと朗読をし始めます。その一節はかなり(どころかポルノ)エロい部分です。奈緒は読みながらドアを閉めます。瀬川が近づいてきます。しかし、瀬川は奈緒が閉めたドアを開けにドアに寄ってきただけです。
結局瀬川はまったく乗ってこずハニトラは失敗、奈緒はあきらめて録音していたスマホを見せます。瀬川が逆にその録音に興味を示し、自分の小説があなたの美しい声で朗読されていることに心がときめく(みたいな感じ)、是非その録音を譲って欲しいと言います。奈緒は意外に感じながらもメールで送ると答えます。
そして、家に戻り、パソコンから録音データを送ろうと宛先を入力しているその時、帰ってきた夫(奈緒は結婚している)がサガワの不在票が入っていたよと言います。メールの宛先が segawa@ ではなく sagawa@ になっています。
これを偶然というか?
5年後、奈緒は、たまたまバスで佐々木と会います。佐々木は出版会社で働いていると言います。あのメールの誤送信で瀬川は失職、作家としても消えてしまっています。佐々木のほくそ笑む顔、奈緒の疲れた顔、再びふたりがセフレになることを匂わせて終わります。
考えてみれば、この第二話には「偶然」も「想像」も、それによって生まれる「創造」もありませんね。
第三話「もう一度」
この第三話が一番「偶然と想像」とのタイトルにふさわしいかもしれません。
夏子(占部房子)は、20年ぶりに東京から故郷の高校の同窓会に参加します。後にわかりますが、目的は同級生のある女性に会いたかったからです。しかし目的は果たせず東京へ帰ろうとするその道すがら、「偶然」その人を見かけます。声を掛け、その女性あや(河井青葉)も夏子のことを懐かしみ、自宅へ誘います。
そして、あやの小奇麗な住宅でのふたりの対話から、実はあやは夏子が思っている同級生ではなく人違いであることがわかります。しかし、あやは、夏子に、自分が夏子が思っている女性であるかのように振る舞うことを提案し、ふたりの対話は続きます。
夏子はその同級生に恋愛感情を持っていたということであり、自分が東京の大学へ進む際に、その女性とは大学を卒業したら東京で一緒に暮らそうと約束していたということです。しかし、その女性は男性の恋人ができたと電話をしてきたということで、その時に、夏子はその女性に自分がその女性なくしては生きていけないとの気持ちであったのにそれを伝えることが出来なかったことを後悔しているということです。
ふたりの間で共有された「想像」力で、それまでずっと夏子の心に引っかかっていたことが解き放たれたのでしょう。夏子はちょっとだけ清々しい気持ちで東京へ帰ることにします。そして、あやの住まいをでて駅への道すがら、今度は夏子が「もう一度」続きをやろうと提案します。あやが人違いしていた相手の女性を夏子がするというのです。
あやはある同級生に憧れていたと言います。その女性は孤高の人という感じであまり友達もいなかったようです。たまたま親しくなり一緒に昼食の弁当を食べたり音楽室でピアノを弾いたりしたということです。あやは夫や子供とともに一般的には幸せな人生と見られる自分に若干の迷いがあることを夏子にもらします。
そしてふたりは別れます。手を振り帰ろうとしたあやですが、踵を返し夏子を追いかけます。そして抱擁するふたりです。
短編集では映画にならない
最初に書いたように、言葉へのこだわり、対話を重要視するゆえの長回し、俳優を活かそうとする映画的センスなどなど、今の日本の映画界にあっては最も期待されるべき監督だと思います。
でも、こうしたオムニバス形式の短編集ではダメでしょう。映画は一本一本、あれは何だったんだろう? 何をやろうとしたんだろう? などと考えるからこそ意味があります。見てそのまま終わってしまうものに価値はありません(言い過ぎ)。この映画が見てそのまま終わってしまうとは思いませんが、でも残りません。散漫になります。
やはり、映画は2時間、圧倒的に描くことを目指すべきものです。