生きてるだけで、愛。

面倒くさい女度が足らないかも。不器用さも。原作が本谷有希子さんで、菅田将暉くんが出ていて、で、監督は? 「数々のCMやAKB48、Mr.ChildrenなどのMVなどを手がけ、カンヌ国際広告祭でグランプリなどを受賞した関根光才」(映画.com)と、3ポイントとなりましたので見に行きました(笑)。

意味わかんねえ!だと思いますが、本谷さんは何冊か読んで面白かった(と記憶しています)ですし、菅田くんは名前を見れば目がいく俳優さんですし、関谷さんというのは初めて見ますが、新しい才能か?といったような意味です。

公式サイト / 監督:関根光才

で、自分でもびっくりですが、本谷さんの本は数冊読んだとの記憶はあっても、このタイトルを見ても何も感じず、読んだ読んでいないの意識もなく、見終わっても原作どうこうに意識もいかず、今調べてみましたら、何と! これ、6年前に読んでました! どうしたことでしょう? 映画を見てもまったく思い出せません。

過眠症、メンヘルの女の必死な愛を描いています。さすがに共有できるところは少ないですが、女であれ、男であれ、今の、いわゆる等身大の若者像がよく分かります。

と、2行しか書いていません(笑)。それに、メンヘル(メンヘラ)って差別的な偏見を感じさせて言葉がよくないですね。

「ぬるい毒」についても引用しますと、

読んでいるとイライラしてきます。それだけうまいということです。「生きてるだけで、愛。」でもそうですが、狭視的な人間、多分今のところは女性しか書けないとは思いますが、いわゆる面倒くさい女を書くのがとてもうまいです。

全般的に、本谷有希子さんの小説は、何かを描写していくといった感じではなく、ある人間、多くの場合女性ですが、今生きている女性がそのまま感情をぶつけてくるような激しさがあります。ぶつけてくるそのものは私にはちょっと理解できませんが、何がしか今を捉えているようには感じます。

「挟視的」なんて言葉ないですね。

話が映画からかなりそれてしまいましたが、結局、上の引用にあるように、この映画も「面倒くさい女」の話です。もちろん女が面倒くさいと言っているわけではありません。本谷さんが女性を書いているのでそういっているだけで、面倒くさい男だって、当然います。この映画の津奈木だって、そこそこ面倒くさい男です。

過眠症で、精神的な病を抱えて(いるらしく)今はうつ状態の寧子(趣里)と津奈木(菅田将暉)は同棲しています。映画の最初に、同棲するきっかけらしき出会いは描かれていますが、すでにその時の寧子はかなりテンパった(振り切れた)状態でしたので、おそらく寧子が津奈木のアパートに転がり込んだということなんでしょう。

二人の暮らしはシェアハウスのような状態にみえます。それぞれ部屋は別々、真ん中にダイニング(台所)のつくりで、寧子の部屋は散らかり放題の万年床、ほぼ、映画の最後まで寧子の部屋は寧子が寝ている以外のカットはなかったような印象です。

津奈木はゴシップ雑誌のライター(記者?)をやっています。もとは小説家になりたかったらしく、人のあら捜しをするような仕事に嫌気が差しているようです。この雑誌は、過去にその記事によって自殺者を出しています。

二人の生活は、(一般的感覚では)殺伐たるもので、津奈木が弁当を買って帰ってくる、寧子は部屋から出てこない、津奈木がノックをすれば、起こすな!と怒鳴り、手当たり次第に何かぶつけてくることもあり、時には起きていて、津奈木が「焼きそばとカツ丼、どっちがいい?」と聞けば「好きな方、食べて」と答え、津奈木が「じゃあ、カツ丼」と食べ始めれば、「カツ丼が食べたい」と津奈木のものをひったくってしまうという有り様。ほぼ、毎日のようにこれが繰り返されているように描かれています。

こう書きますと、この映画、サイコか?ホラーか?(笑)という感じにも思えますが、実際にはここには狂気もありませんし、何かが崩壊していく恐怖もありません。

逆に言えば、この映画がつまらないのは(ペコリ)このことで、すでに最初から寧子は甘えているとしか見えませんし、津奈木にはそれがわかっており、それでいいと思っているから受け入れているように見えるということです。

これは、引きこもりというものが甘えだと言っているのではなく、この映画の寧子が甘えの存在として描かれているという意味です。

はからずも寧子がラストシーンで言っていますが、自分が当たり散らしたり、身勝手な行為をするのは、全力であなた(津奈木)に語りかけているからだ、それなのに、あなたは面倒くさがって(だったかな?)真正面から受けようとせず逃げていると、津奈木を責めます。そして、自分は涙でぐちゃぐちゃになります。

それを見た津奈木は、おそらく愛おしくなったのでしょう、そっと寧子を抱きしめます。

「多分、私たちが本当に分かりあえたのなんて、ほんの一瞬くらい。でもその一瞬で生きていける。」とモノローグが入って終わります。

この映画は、寧子という存在が「かわいい」という視点で作られています。

津奈木の元カノ安堂(仲里依紗)が登場し、自分が縒りを戻すためには寧子がじゃまなので、寧子を働かせて自立させ別れさせようと画策します。

この設定、かなり演劇的で、映画ならもう少しひねったほうがいいとは思いますが、それはともかく、安堂の知り合いのカフェバーでの二人、どう考えても、あのシーン、嫌な女の安堂と可愛い女の寧子でしょう(笑)。

安堂の要求に素直に従う寧子の引きこもりや鬱って何?とは思いますが、それもともかく、あのカフェバーのオーナーと妻、そして元引きこもりの従業員、どう考えても、嫌味な嫌な奴らでしょう。家族みたいなものだからとか、こうやってみんなで一緒にご飯食べてれば引きこもりなんて治っちゃうわよって、気持ち悪いでしょう(笑)。

そうやって逆に寧子が可愛く見えるように描かれています。お皿割って申し訳なさそうにする寧子、遅刻してペコペコする寧子、可愛く描かれています。

原作がどうであったかまったく記憶しておらず、もう一度読み直してみるかとは思いますが、もっとぐちゃぐちゃな嫌な女にしてシリアス度を深めるか、いっそ喜劇にしてしまうか、そうでもしないとつまらないベタな恋愛もので終わってしまうように思います。

菅田くんは、と言えば、なぜあのカツラ?と思いますし、映画的に存在感、薄かったです。暴露記事を無理やり書かされ、過去の記事による自殺騒ぎと絡ませて精神的に追い詰められ、最後にキレてクビになるという流れでしたが、寧子とまったく絡んでいません。

寧子をにらみつけるカットがありましたが、あれは、わがままもほどほどなら可愛いいけど、度を過ぎるとただじゃおかないぞっていう男の眼ですかね。だめでしょ、津奈木はそういう男じゃないんだから(笑)。

ということで、男目線の「面倒くさい女」の映画になってしまいましたね。全体としてそつなく美しく作られていると思いますし、16mmで撮ったという映像もとてもきれいです。ただ、寧子と津奈木が街中を走ったり、ビルの屋上の夜景にしても、美しくはあっても、どこかで見たようなという印象は免れず、新鮮さに欠けるものではあります。

生きてるだけで、愛。 (新潮文庫)

生きてるだけで、愛。 (新潮文庫)