かくしごと

描くべきテーマを映画が隠してしまっているようだ…

生きてるだけで、愛。」の関根光才監督です。映画だけではなく映像に関わる分野で幅広く活躍されている方のようです。6年前のその映画は、趣里さんの面倒くさい女演技と菅田将暉さんのカツラが印象深く記憶に残ってはいるのですが、レビューに何を書いたかは記憶がなく、読み返してみましたら、映像は美しいけれども新鮮さは感じられないなんて書いています。さて、この「かくしごと」はどうでしょう。

かくしごと / 監督:関根光才

杏さん、奥田瑛二さん、酒向芳さんはいいのだが…

ひとことで言いますと、細部にはいいところも多いのですが全体がよくありません。

いいところは俳優さんです。杏さんと奥田瑛二さん、杏さんを見るのは(もちろん俳優として…)初めてですので、こういう俳優さんなんだとじっくり見ることができました。感情表現が求められるシーンではアップのカットが印象的で抑制された感じがとてもよかったです。奥田瑛二さんは作り込む俳優さんですから認知症の役はあっています。そしてもうひとり、町医者役の酒向芳さん、顔には見覚えがあるのですが名前がわからなく初めて調べました。ていねいな演技をされる俳優さんで、映画の流れとしては結構酒向さんが助けていたんじゃないかと思います。

という、細部がよかったといっても俳優さんがということで、決して映画自体は良いわけではありません。

まず何をおいても、ラスト5分か10分にいたる、全体が128分となっていますので約2時間が冗長すぎます。シナリオ自体に起伏やメリハリがないということです。

シナリオ自体に欠けているものが多く…

東京で暮らす作家(絵本作家だったのね…)の千紗子(杏)が、父親孝蔵(奥田瑛二)が認知症を発症したとの知らせを受けて田舎に帰ってきます。千紗子には父親へのわだかまりがあるらしく、要介護認定を受けて施設に入れたらすぐに東京へ帰るつもりでいます。

この父娘の関係がどうなるかがひとつの軸になっています。

そしてもうひとつは、ある夜のこと、幼馴染の久江の車に同乗している際に、車が少年と接触(結果的にはその程度…)して少年が意識不明となります。少年の体を調べますと体中に DV によるものと思われる痣があったことから少年を連れて帰り、翌朝少年に記憶がないことから、千紗子はそのまま少年を自分の子どもとして匿うことにします。

この少年と千紗子の関係がどうなるかがもうひとつの軸です。

映画などドラマというものを見慣れていれば、この設定をみればこの先どう展開するのかはおおよそ検討はつきます。それが2時間続くという映画です。

おそらく千紗子は過去に子どもを失っているだろうし、子どもが間に入ることで父娘の間も変化していくんだろうと予想することはさほど難しいことではありません。

たしかにそのとおりでしたが、オチが違っていました。私の予想は、一旦はうまくいきそうにみえた疑似家族関係ですが、子どもが記憶を取り戻すことによって崩壊するんだろうというもので、記憶が戻るきっかけは千紗子と父親の暴力的(に発展してしまった…)な争いを子どもが見てしまうことからだろうということでした。

まあこの予想は余計な話ですが、いずれにしてもこの単調なシナリオでは2時間は無理です。ラストシーンから考えれば、嘘がバレるかもしれないといったサスペンス要素をもっと入れてメリハリをつけるのが一番ぴったりきそうですし、あるいは、父娘孫関係をもっと濃密にして見るものの感情を揺さぶるということも可能なように思います。

映像作家らしくない説明台詞多用で…

北國浩二さんの『噓』という小説が原作とのことです。「かくしごと」などという曖昧なことにしたのがいけなかったかもしれません。

原作がどうかは分かりませんが、「嘘」をついたことの後ろめたさや罪悪感や動揺など精神的な揺れをテーマにしてサスペンスタッチで進めればよかったのではないかと思います。

で、実際の映画はどうかといいますと、まず、千紗子と孝蔵の関係を説明台詞ですましているのが決定的にダメです。千紗子が町医者に話す過去を千紗子と孝蔵のシーンで描かないから映画にならないんです。

孝蔵は元教師であり、千紗子に非常に厳しくあたっていたらしく千紗子は早く脱出したかったといいます。東京の大学へ逃げ出したものの付き合っていた男との間に子どもができたため結婚し、その後、海で子どもを亡くし、その際、孝蔵からひどい言われ方をしたといいます。それがもとで疎遠になったとのことです。

これを二人のシーンで描かなきゃダメでしょう。そうすれば孝蔵の奥田瑛二さんだってもっと振り幅の大きい認知症患者を演じることができたわけですし、杏さんの涙だって孝蔵の前で泣けばもっと深い涙になっています。

少年との接触事故もかなりまずいです。その時久江は飲酒運転です。久江は公務員です。居酒屋で飲んで、私がビール2杯くらいで酔っ払うものですかって大声で言って、二人ともに迷いなく車で帰っていきます。

さすがにここで多くの人がこの映画ダメだなと思うでしょう。飲酒運転がいいの悪いのということではなく、まあドラマづくりのセンスの問題でしょう。それに、少年は車の真ん前に倒れていましたが、ドンとぶつかって事故のケガも後遺症もなしですか、せめてフラフラと出てきて接触したくらいにしておいたらと思います。その後の千紗子と久江のやり取りも、もっとパニクるならともかく、大丈夫かこの人たち?! と引いてしまいます。

とにかく、翌日、その少年は両親とキャンプに来ていてバンジージャンプをして誤って川に落ちて行方不明なった少年であることがわかります。両親は捜索の結果を待たずに帰ってしまったということであり、またバンジージャンプといっても一般的なロープを足にくくって飛び降りたということですから、映画的には親の暴力行為の結果であることはわかるようになっています。

千紗子は少年が DV 被害者であることを確認するために親の元を訪ね、その確信を得て少年を自分の子どもとして育てる決断をします。そして自分が書いている小説(絵本らしい…)の少年の名である択未と呼び始めます。

ラスト10分で落としてしまっては…

このレビューの最初に杏さんがよかったと書きましたが、それは杏さんの俳優力の話であって、この映画の千紗子に関してはその演出意図との関連においてうまくいっているかどうかは別ものであり、的確な表現可能なシーンがなければいくら俳優がその人物を深く演じようとしても限界があるという意味では、千紗子のこうしたかなり乱暴な行動に映画的説得力があるかと言われればやや疑問が残るものではあります。

ということで映画的にはもの足りないものですが、父娘孫の疑似家族もそれなりにうまくいきそうな矢先、拓未の父親が訪ねてきます。その男は千紗子から金を強請ろうとし脅迫します。拓未が男を刺します。千紗子はそのナイフ(悪魔を除く刀と前振りされている…)を手に取り、すでに死んでいると思われる男を2度3度と刺します。

そして、映画は一気に解決編に向かいます。

千紗子の裁判です。争点は千紗子の正当防衛が成立するかです。2シーンでしたか、簡単に検索と弁護人の陳述や証人尋問があり、拓未が証人として証言することになります。

拓未は自分が父親を刺しましたと証言し、そして、自分の母親はあの人ですと、被告席の千紗子を見つめます。千紗子の目から涙がこぼれます。

ダメでしょう…

という映画で、一番気になるのは映像作家としての持ち味はどこにあるのか? ということです。杏さんのアップの映像は美しく撮られていましたが、全体的に凡庸な映像が多かったです。

生きてるだけで、愛。」も関根光才さんの脚本でした。こちらは本谷有希子さんの原作でしたからシナリオ化が楽だったかも知れませんが、この『嘘』は、読んでいないのに言うのもどうかと思うものの、こういう小説然とした原作をシナリオにするのはなかなか難しいんじゃないかと思います。結果として少なくとも誰か脚本家を入れるべきだったと思います。

余計なことではあります。