岸井ゆきのさんが聴覚障害のあるボクサーを演じています。ただそれだけですがいい映画でした。監督は「きみの鳥はうたえる」や「Playback」の三宅唱監督です。
役作りに一年は必要じゃないか
ケイコ(岸井ゆきの)には先天性の聴覚障害があり両耳ともに聞こえません。弟と東京下町のマンションをシェアし、ホテルのハウスキーピングの仕事をこなしつつ、プロボクサーとしてリングに上がっています。会話は手話と筆記と口話です。
そんなケイコの数カ月の日常が描かれていきます。朝暗い中でのロードワーク、仕事、ジムでのトレーニングの毎日が繰り返されます。試合のシーンもあります。
ケイコを演じた岸井ゆきのさんの準備期間は3ヶ月しかなかったそうです。
ボクシングに手話に聴覚障害の演技、ハリウッドなら最低でも1年の準備期間はあるでしょう。日本じゃ仕方ないこととはいえ、もっとよくなったはずなのにもったいないです。やろうとしていることも伝わってきますし、俳優もいいのですが、物足りないです。特に手話に自然さがありませんし聴覚障害であることの存在感があまり感じられません。
ケイコが友人ふたりとカフェで話をするシーンがあります。ふたりはろう者の俳優の山口由紀さんと長井恵里さんだそうです。このシーン、ふたりは手話で盛り上がっているのですが、ケイコは相づちを打ち笑顔も見せますが一度も会話に加わりません。かなり違和感のあるシーンです。
いい映画に水を差すのもなんですが、ろう者はろう者の俳優が演じたほうがいいのではないかと思います。それに手話は言語です。
ボクシングとケイコ悶々
ボクサーはボクサーが演じなくちゃいけないわけではありません。それは属性ではなく後に身につけた技能だからです。
ですので岸井ゆきのさんもボクシングという点ではかなり努力したんだろうと思います。ただ、実際のところトレーニングのシーンはあまりパターンがありません。同じシーンが繰り返されています。試合のシーンも短いです。
最近の日本のボクシング映画では「BLUE/ブルー」「あゝ、荒野」、どちらもとてもいい映画でした。ボクシングシーンもよかったです。
この映画はその点ではちょっとさみしいのですが、ボクサーとしての岸井ゆきのさんはとてもいい感じです。わりと早い段階で試合のシーンがあり、ケイコは判定勝ち(だったのかな?)します。しかしケイコはボクシングを一度休みたいと考えるようになり、ジムの会長(三浦友和)への手紙を書いて持ち歩いています。
なぜケイコが休みたいと思い始めたのか、映画は語ろうとしませんし、ケイコに語らせようともしていません。三宅唱監督はそういう映画を撮る方なんでしょう。
そして同時にジム自体も閉鎖せざるを得なくなったようです。理由ははっきりしませんが、会長が練習生たちに閉鎖の挨拶するシーンで、トレーナーふたりが移転先を探すなど努力してくれたが…と言っていましたので移転せざるを得ない事情があるのでしょう。それに日本で最も古くからのジムと言っていましたのでジムの老朽化や練習生の減少もあるということかもしれません。
会長やトレーナーがケイコのために異動先のジムを探してきます。近代的な設備が整ったジムです。しかし、ケイコはそのジムへの異動を断ります。
ケイコはなにかに悶々としています。おそらくボクシングだけではないのでしょうが、映画はそのケイコの内面に迫ろうとはしません。ただ悶々とするケイコを撮り続けるだけです。
岸井ゆきのさんゆえにそれでももっている映画ということです。
聴覚障害に頼り過ぎではないか…
いい映画と言いつつあまりいいことは書いていませんね。
岸井ゆきのさんは瞬間的な力(パワーという意味ではなく…)を持っている俳優さんです。ただ、この映画ではその力が持続しません。それは監督の仕事です。この映画でもシーンごとはとてもよく、ふっとした瞬間に意味もなく涙が流れてしまいます。でもそれが持続しません。持続させるのは監督の力です。残念ながらそれがありません。
この映画は登場人物皆が過剰にケイコに関わります。ジムの会長、トレーナー、辞めていく練習生までもが、みんな女ばかりに一生懸命になっていると捨て台詞を残していきます。弟、弟の彼女、母親、会長の妻、登場人物みなケイコのことばかり考えています。映画ですからそのこと自体は特別なことではありませんが、それに応えるだけのケイコの持続的な存在感がありません。いや、足りません。
おそらくそれはケイコの内面に立ち入ろうとしない、あるいは立ち入らない脚本、監督のせいなんだろうと思います。さらに言えば、聴覚障害であるケイコを描くことよりも聴覚障害を持つケイコを外部から見つめる目で描かれた映画だからなんだと思います。