ナイチンゲール

歴史ものに、悪いやつもいるし、いいやつもいるってのはダメ!

19世紀のタスマニアを舞台にした、アイルランド人の女性の復讐物語が軸になった映画で、そこにイギリス対アイルランド、そして先住民アボリジニの虐殺をからめた、しかしながら映画の出来としてはあまり良くはなく美しくもありません。

ただ、2018年のヴェネツィアで審査員特別賞を受賞しています。

ナイチンゲール

ナイチンゲール / 監督:ジェニファー・ケント

何が良くなく美しくないかは後回しにして、良いところは、こういう映画は知らなかったことやぼんやりとしか理解していないことを調べたりするきっかけにはなります。

実際、アボリジニと聞いてもオーストラリアの先住民であることやあの長い楽器のことは浮かびますが、その歴史的な経緯や現状もほとんど知らないことをあらためて思い知らされます。

そもそもアボリジニという言葉で先住民をくくってしまうことにも問題があるらしく、オーストラリア政府観光局によれば「「ファースト・コンタクト(First Contact)」の期間として知られる1788年からの植民地化の初期には、350から750の異なるオーストラリア社会グループがあり、同じだけの数の言語」があったそうです。こちらのサイトに「1988年から1994年に公開された原資料をもとに作成」されたマップがあります。

AIATSIS map of Indigenous Australia | Australian Institute of Aboriginal and Torres Strait Islander Studies

この映画の舞台となっているタスマニアはオーストラリア本土から240km南方の島ですので、先住民もオーストラリア大陸とはまた違った経緯をたどり、1800年代前半に「ブラック・ウォー」という「イギリス植民者とタスマニアン・アボリジニーの争い」があり、その後、「1876年には最後のタスマニアン・アボリジニーが死去」し、純血の先住民は絶滅したそうです。この戦い、上のリンク先を読みますとイギリスのやったことは無茶苦茶ですね。

この映画の時代背景については日本の公式サイトには19世紀としかありませんが、IMDbには1825年とあります。「ブラック・ウォー」の最も激しい争いがあった時期のようです。

ただ、この映画にはそうした争いは(はっきりとは)描かれておらず、イギリス人がただただ先住民を撃ち殺すシーンがあるだけです。「スポーツハンティング」というおぞましい言葉まであるらしく、もちろん言葉だけじゃなくその行為が行われていたということで、この映画でもとにかくイギリス人が何の躊躇もなく先住民を撃ち殺します。

この映画が美しくないことのひとつは、そうした描写のおぞましさが宙ぶらりんにされていること、つまりは、その暴力が個人の「悪」に結び付けられてしまっていることであり、さらに言えば、この映画は、悪いやつもいるし、いいやつもいるという価値観で歴史的な暴力をとらえているということです。

クレア(アイスリング・フランシオシ)はアイルランド人の囚人でタスマニアに流刑の身です。夫との間に乳児がいます。囚人といっても入植の目的を兼ねていますので開拓のための労働力ということであり家も与えられています。

その入植地を監督、支配するイギリス軍の将校ホーキンス(サム・クラフリン)がいます。クレアとの関係についてはよくわかりませんが、ホーキンスの、クレアに夫も与えてやったではないかという台詞や、クレアが刑期を終えたのに開放してくれないと抗議したりしていることからすれば、ホーキンスがその立場を利用して(今でも)セックスも含めた支配関係にあるのだと思います。

この映画、こうした人間関係が整理しきれていません。ん? と引っかかることが非常に多いです。人間関係だけではなく物語の流れもギクシャクしています。シナリオもジェニファー・ケント監督のものですので思い込みがよくない方に出ているのではないかと思います。

とにかく、このホーキンスは(その視覚イメージに反して)徹底的に非情な人間に描かれており、その非情さを抗議するクレアの夫の前でクレアをレイプし、さらに部下の兵士にレイプさせ、叫ぶ夫を迷いなく撃ち殺し、泣き止まない乳児を黙らせろと若い兵士に執拗に命じ、パニックに陥った若い兵士が乳児を壁に叩きつけて殺してしまうという、見ていても気持ちが悪くなる描き方がされています。

流れがギクシャクということにちょっと触れておきますと、このおぞましいシーンの前のシーンでは、ホーキンスがクレアを自室に呼び二人だけのシーンがあるのですが、そこではホーキンスはクレアにブローチをプレゼントしたりして、他のシーンとは違った感じでクレアに相対しています。もちろん人間いろんな面を持っているわけですからその行為自体がおかしいということはないのですが、映画全体を通して人物造形ができていない、ギクシャク感があるということです。

その虐殺の後、ホーキンスは現在の任地(どこか地名があったような…)から栄転したいがためにローンセストン(タスマニア北部の町)に二人の兵士とともに上層部に直訴に向かいます。

クレアは怒りをたぎらせ復讐のためにホーキンスの後を追います。

ここまで30分くらいでしょうか、映画が136分ですので、このあと100分くらいが追跡、復讐に費やされます。それが映画の軸とは言え、流れも悪いですので飽きてきますし、イライラ感も生まれます。

長くなってきましたので飛ばしましょう(笑)。

追跡劇の主要なポイントは、追跡の物語(大したことはない)のあれこれともうひとつ、クレアとガイドである先住民のビリー(バイカリ・ガナンバル)の人間関係の変化があります。

クレアはアイルランド人であるがゆえに、また囚人であるがゆえにホーキンスなどイギリス(イングランドかな?)人たちから侮辱的な言葉を浴びせられたりします。そのクレアでさえ、征服側の人間、また白人であるがゆえにビリーを人間扱いしません。強い言葉で命令し、罵倒したりします。

それが数日間の旅の間に少しずつ変化していきます。

数日間と言えども鬱蒼とした森や山岳地帯を進みますので、野営(毛布を敷くだけ)の際に不安になり、離れて横になっていたのをビリーの近くに寄ったり、最後には手を握り合うところまでいく描き方がされていました。クレアが頻繁に夫と子供の悪夢を見るということもあります。

かなり後半には、クレアがビリーに、先住民にも(黒人にもと訳されていた)ホーキンスのような悪人はいるの? と尋ね、ビリーはそりゃいいやつも悪いやつもいるさと答えていました。

こういう安易さが映画として薄っぺらいですし美しくありません。優しさやいい人間を否定するわけではなく、歴史上の暴力や残虐さを個人の資質の問題にして描いてはだめです。

こんなシーンもありました。途中馬車の老夫婦と出会い、家に呼ばれ食事をふるまわれるのですが、ビリーが地べたに座って食べようとするのをテーブルで一緒に食べなさいと呼び込んでいました。

ホーキンスはその道中でも先住民の女性をレイプ、虐殺を繰り返します。ホーキンスだけではなく、途中で出会う白人もまた無茶苦茶な人間たちです。鎖につないだ先住民たちを連れていたと思ったら、何だったか忘れましたが、何の躊躇もなく撃ち殺していました。あるいは「ブラック・ウォー」を意味する描写だったのかもしれません。

クレアがホーキンスに追いつきます。その時、先住民たちとのごちゃごちゃで兵士たちはばらばらになっていましたので、クレアはそのひとり、乳児を壁に叩きつけた若い兵士を追いかけ、銃で足を撃ち、ナイフで幾度も刺し、そして銃の台尻で幾度も顔を打ち据えます。

惨殺です。クレアの憎悪からすればそうかも知れませんが、映画の流れからはこのシーンだけが無茶苦茶浮いていました。

というのは、その後、ホーキンスにも相対するのですが、銃を構えて撃つのかと思いましたら、なぜか、躊躇して、逆に肩を撃たれていました。

よくわからないですね。まさか恋愛感情とは言わないまでの何らかの情ということではないでしょうね、うーん…。

とにかく、ラスト、ローンセストンに到着です。なぜそうなっているのか何の描写もなく、ホーキンスは立派な制服を着て上官たちと食事をしようとしています。上官に異動が認められたんでしょうかね。

そこに、クレアがひとりで乗り込みます。ホーキンスの前に毅然と立ち、非難の言葉を浴びせ…、なんですがどんな内容だったか記憶していません(涙)。シナリオ的には決め台詞だったのかもしれません。

そして、アイルランドの歌を歌って去っていきます。

最初のシーンもクレアの歌で始まっていますし、わからなくもないのですが、もう少しなんとかできなかったんでしょうか。

ん? やっぱり、何かホーキンスへの情が…とか?

ラストのラスト、その夜、ビリーが戰いの身支度をし、戦いの踊りし、ホーキンスを襲い、槍のひと刺しで殺害します。

そして、クレアとビリーは海辺に行き、互いに先住民の歌、アイルランドの歌を歌い、映画は終わります。

迫害される者たちの哀切なる歌のハーモニーとは…、残念ながらなっていませんでした。

この映画にこれだけ長々と書いた自分がわからない(涙)。

ピアノ・レッスン (字幕版)

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  • 発売日: 2013/12/10
  • メディア: Prime Video