サンセット

上から目線の映画はつくり手が望むほど人には伝わらない

サウルの息子」のネメス・ラースロー監督の長編2作目です。

もし、この映画を見ようかやめようかと迷ってこのサイトにこられた方がいましたら、是非見てください、そしてどう感じられたか教えてくださいと答えます。そういう映画です(笑)。

サンセット

サンセット / 監督:ネメシュ・ラースロー

タイトルの「サンセット」、映画を見る前も見た後も何となくしっくりこない感じがします。いいとか悪いとかではなく違和感があるということなんですが、英語タイトルも「Sunset」です。原題はハンガリー語で「Napszállta」、Google翻訳で見てみますと「eventide」、日没前の黄昏時を意味するようです。

物語が、第一次世界大戦(1914.7.28~1918.11.11)の直前、1913年のオーストリア=ハンガリー帝国絡みの話ですので、まさに黄昏(落日)の帝国といった意味合いがあるものと思われます。また、本人へのインタビューでは、 F・W・ムルナウの「サンライズ」からインスピレーションを受けており、この「サンセット」も、同じように文明の希望と絶望について語っていると言っています。

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ただ、つくり手がそうは言っても、果たして、見ていて「文明の希望と絶望」(だけではないけれど)にまで気がいくかどうかはかなり難しいと思います。

とにかく、この映画のコンセプトは、想像するに、見る者を混乱させることにあるようです。台詞、映像、音、どれをとっても、説明を拒否するどころか、逆に混乱させることを意図した情報が提示されます。

字幕であることを差し引いても台詞が噛み合っているとは思えません。主人公であるイリス(ユリ・ヤカブ)の行動はちぐはぐで(常識的には)つじつまが合っていません。フレーム内にはないものの音やそこにいない人間の声を意図的に入れています。

カメラワークや映像処理は「サウルの息子」と全く同じで、ハンディカメラでイリスをアップでとらえたまま動き回ったり、イリス以外をフォーカスアウトしてしまう手法をほぼ全編で使っています。

ああそういえば、いきなりエンディングに話が飛びますが、ラストカットも同じですね。「サウルの息子」はサウルのアップで終わっていましたが、この映画もイリスのアップ(その意味合いはこの記事の最後にあります)で終わっていました。

物語という点では「サウルの息子」はまだわかりやすく、ゾンダーコマンドのサウルが自分の息子をユダヤ教の教義に則って埋葬したいと願うことを軸に彼らの反乱を描いていたわけですが、この「サンセット」では物語自体も混乱(させようと)しています。

とにかく、見る者は、何もわからないままにイリスとともに、とにかく前へ前へと進まざるを得ない映画ということです。言ってみれば迷路に迷い込んだみたいなものです。

ただ、イリスの過去とイリスが目的とすべきことだけは与えられています。

ブタペストのレイター帽子店はオーストリア=ハンガリー帝国の王室御用達の有名帽子店です。イリスは前オーナーの娘で、2歳の時に両親が亡くなりどこかに預けられていたようです。成長した今、レイター帽子店で働きたいとブタペストにやってきます。現在のオーナーはブリル(ブラド・イバノフ)といい、イリスの父親のもとで働いていたようです。

というのがイリスの過去で、両親の死やブリルがなぜ今のオーナーであるかといったことは物語には関わってきません。

そして、イリスが目的とすべきことは、本人もその存在を知らなかった兄カルマンを探すことです。カルマンはつい最近まで帽子店で働いていましたが、お得意の伯爵を殺害したらしく、その後姿をくらましています。

確実にわかることはこれだけです。

イリスはカルマンを探すために、とにかく、とにかく、動き回ります。動くな、ここにいろと言われても、次の瞬間には(前後の脈絡なく)もう動き回っています。ブタペストを去れと言われても、すぐに戻ってきて、また動き回ります。

でも、何が起きているのか、カルマンはいるのかいないのか、何もわかりません(笑)。ネメス・ラースロー監督は何も教えてくれません(笑)。

ということで、結局、見る者は映像的な視野も狭められている上に、頼みの綱であるイリスは監督の言うがままで、見る者のことを考えてくれません(笑)。イリスが発する問いに誰かが答えるとします。たとえその答がちぐはぐで的を得ていなくても、イリスがさらなる問いを発することはありません。そして、見る者はまるで迷路(迷宮)に迷い込んだような気持ちにさせられるのです。

それでも何となく感じることはあります。何やら世の中自体がざわざわしており、そのレイター帽子店にもその波は押し寄せ(よくわからないけど)憎しみのようなものが裏でうごめいているような気配がします。

公式サイトには「ウィーンの王侯貴族に店の女性を捧げている」つまり売春を強要しているというような記述がありますが、具体的なシーンはありません。確かに舞踏会のようなシーンがあり、誰が選ばれるかというような展開はありますが、ここでまたイリスが自ら(勝手に)その役を買って出て訳をわからなくしてしまいます。

仮に、レイター帽子店に当時の王室、貴族、そしてブルジョワジーという支配階級を象徴させ、その堕落ぶりを描こうとしているのなら、正直なところ、映画からそうしたものが浮かび上がってくることはありません。

批判的にいうなら、当時のブタペストの街並みや高級帽子店の豪華なセットを再現し、そこを縦横無尽に動くカメラという、そうした映画の作りだけにつくり手が酔っているだけのような感じがします。

で、イリスが探しまわるカルマンですが、実際にいるのかどうかよくわかりません。それらしき人物は出てきますが、例によって、そうだともそうでないとも答えません。

伯爵を殺害したことも、伯爵夫人への暴力を止めるためだったようなことも言われていましたし、ただ、その伯爵夫人は精神状態がよろしくない状態になっているようなところもあり、とにかくこれまたよくわからないのです。

あるいは、カルマンとはあるひとりの人物ではなく、支配階級に抗う意識の象徴的な概念であって実在するわけではなく、ラスト、暴動のシーンとなり、イリスを見た群衆がレイターが来た(だったような)歓声を上げていましたので、イリスこそがカルマンであり、つまり、その時イリス自身が自分は何者であり、何を成さねばならないかを知ったということなのかもしれません。

そして、一瞬にしてシーンは第一次世界大戦の塹壕の中に飛びます。カメラは、どこまで続くともしれない塹壕を縫うように進みます。雨の中濡れ鼠のように立ちすくむ兵士たち、行く手を遮るようにひとりの兵士が立っています。イリスです。

このシーンが、文明の希望にみえるのか、あるいは絶望にみえるのか? それはあなた次第です。

という映画なのかな、と思います。 

が、どうなんでしょう、私はちょっとばかり上から目線じゃないの? と思います。

いくつかネメス・ラースロー監督へのインタビューを読みますと、わかりやすい映画には断固として反対するとか観客は物語の迷宮に入るべきだとか言っていますが、観客が混乱することと混乱を感じることとは違いますし、映画が説明的であることとわかるわからないの問題もまた違うものです。

この「サンセット」は観客を混乱させようとしていることにおいて極めて説明的です。説明的とはつくり手の意図が読めるということです。それは映画が何を言おうとしているかがわかるわからないとも違います。

この映画は現在の、特にヨーロッパがある種文明の帰路に立っていると説明しています。

サウルの息子(字幕版)

サウルの息子(字幕版)