自伝的、あるいは自分の家族を題材にすることが多いミア・ハンセン=ラヴ監督の最新作、昨年2022年のカンヌ国際映画祭監督週間で上映され、ヨーロッパ・シネマ・レーベル賞を受賞しています。
前作の「ベルイマン島にて」では自分自身ですし、「未来よ こんにちは」でイザベル・ユペールさんが演じたナタリーは母親ですし、「エデンEDEN」では兄をモデルにしているようです。そして、今回は父親です。
不倫ドラマのように見えてしまう…
サンドラ(レア・セドゥ)は5年前に夫を亡くし、娘リンと暮らしています。哲学の教師だった父親は記憶と視力を失っていくという原因不明の病に冒され介護が必要な状態になり、どう対処するかも考えなくてはいけません。
ハンセン=ラヴ監督の映画には、目にみえる生活上の苦悩をもった人物、たとえばシングルマザーであるがゆえに生活が苦しいなどといったわかりやすい人物は登場しません。この映画のサンドラは通訳や翻訳といったいわゆる知的な仕事をしていますし、これはフランスだからかも知れませんが子育てに追われるといったこともなく、また、父親の介護にしてもサンドラの肩にかかっているわけではなく、離婚した妻や妹、それに父親には現在のパートナーもいます。見方によってはいったい何が問題なの?と言えなくもありません。
そういう人物を描いた映画なんです。ですので、その人物があまり具象性を帯びてきますと途端に映画が下世話になってしまいます。
おそらくこの映画の構想は、失われていくものと生まれてくるものという、誰もが日常的にそのバランスをとりながら生きていることを描くことが主眼だと思います。
失われていくものは、記憶を失っていく父親そのものであり、また、その父親の記憶を大切にしたいサンドラの思いです。そして、生まれてくるものは、サンドラの新しい出会いであり、人を愛する気持ちです。
そのどちらかが立ってしまうとこの映画は成り立ちません。具体的言えば、生まれてくるものがあまりに生々しすぎます。レア・セドゥさんの演じるサンドラが不倫ドラマの女性のように見えてくるということです。
レア・セドゥの魅力
ハンセン=ラヴ監督はレア・セドゥさんが演じることを前提にシナリオを書いたということですので、あるいはこれまでにない女性を描こうとしたのかも知れませんが、残念ながらレア・セドゥさんの俳優としての持ち味を読み間違えたか、レア・セドゥさんのもっている魅力をコントロールしきれなかったということだと思います。
つまり、ハンセン=ラヴ監督にはもともと「それでも私は生きていく」などという情緒的な映画を撮るつもりはなく、「Un beau matin(ある美しい朝)」という、ただ、あるいはたまたまそこにある人生のひとこまを並列的に描いていくつもりだったんだろうと思います。(これは邦題への嫌味です)
ところが、レア・セドゥさんの持つ魅力が前面に出てしまい、それにより失われていくものの影が薄くなってしまい完全にバランスが崩れてしまっています。言い方をかえれば、この映画のレア・セドゥさんはサンドラを演じたのではなくレア・セドゥを演じているということです。
でも、結局のところ、ハンセン=ラヴ監督はそれで良しとしたのでしょう。ハンセン=ラヴ監督の映画は常に自伝的ではありますが、当然ながらサンドラはミアではありません。ハンセン=ラヴ監督はレア・セドゥというキャラクターの他の映画での魅力をわかった上で、それら男性の視線で描かれてきた女性ではないレア・セドゥを撮ろうとしたのであり、それは出来たと思っているのだと思います。
失われていくものと生まれてくるもの
とにかく、この映画のひとつの軸はサンドラとクレマン(メルヴィル・プポー)の恋愛です。クレマンはサンドラの亡くなった夫の友人であり、ある日偶然あったというところから始まります。その偶然さをわざとらしく見せないことがハンセン=ラヴ監督のうまさだとは思います。
しかし、それ以後の展開はハンセン=ラヴ監督にしてはあまりにも現実的でベタすぎます。二人はともに求めあい、そして関係をもち、ありきたりの不倫ドラマに突入していきます。クレマンは偽りの状態に耐えられないと言って去っていき、サンドラはそれに対して私を捨てるのとクレマンを詰り、スマホをのぞいては連絡を待ち、クレマンからの君がいないことに耐えられないとショートメールを見るや、速攻で愛していると返し、そしてふたたび愛し合い…の繰り返しです。
この愛を生まれてくるものと言えるとするならば、サンドラと娘のリンとクレマンの三人がサクレクール寺院からパリの街をながめ、家はどこ?と尋ねるリンにクレマンがまっすぐ先だと答えるそのシーンくらいのものだと思います。
失われていくものの方も、一概にレア・セドゥさんが立ち過ぎているからだけではなく、父親ゲオルグ(パスカル・グレゴリー)の存在感もかなりぼんやりしています。難しい役ではあります。哲学者として過去が失われていく恐怖のようなものがあまり感じられなく、認知症的な演技に終始していたように思います。
ゲオルグの蔵書の処分に戸惑うサンドラのシーンやその際にサンドラが見つけるゲオルグが残した文章のナレーションで補われてはいましたが、すーと入ってくるようなものではなかったです。
元妻フランソワーズ(ニコール・ガルシア)の存在感が強すぎるせいもあるかと思います。要はゲオルグが大きな存在として感じらないということです。
個人主義と家族主義
あまりいい映画とは言えないことばかり書いていますが、そういうわけでもなくきっちり最後まで興味深く見られます。人生というものが日々のひとこまひとこまで成り立っていることを実感させるような編集はとてもうまいと思います。
それにこれはハンセン=ラヴ監督だけのものではありませんが、フランス的価値観と思われる個人主義と家族主義が同居している社会を強く感じます。
つい最近見た「午前4時にパリの夜は明ける」のレビューでもフランス人には個人主義と家族主義が同居する価値観があるということを書いていますが、この映画なんてまさしくそれです。
父親ゲオルグは離婚していますが、現在はレイラというパートナーがいます。フランソワーズもともに暮らすパートナーがいます。そうした現在でもゲオルクの過去を精算するのはその時代をともに生きたフランソワーズやサンドラやその妹でありレイラではありません。
もちろんこの日本にもある人間関係だとは思いますが、映画で描かれる家族を見る限りでは日本では難しい家族にみえてしまう家族ではあります。
ということで、この映画はミア・ハンセン=ラヴ監督らしくない、しかしながら、ミア・ハンセン=ラヴ監督の転機となるかも知れない映画ということだと思います。