屋根裏の殺人鬼フリッツ・ホンカ

日本で上映する意味のない映画

この映画を日本で上映する意味が何かありますかね?

「愛より強く」以降ほぼすべての映画を見ているファティ・アキン監督ですので見ましたが、ただ単にアルコール依存症のサイコパスの男の日常を見せているだけで、人間性に関わる普遍性なし、ホラーとしての深さもなし、映画的な面白さもなし、(日本ではという意味での)現代性もなしという映画です。

屋根裏の殺人鬼フリッツ・ホンカ

屋根裏の殺人鬼フリッツ・ホンカ / 監督:ファティ・アキン

好意的に考えれば、ドイツでは意味のある映画なんでしょう。

今から50年くらい前にドイツ、ハンブルクで起きたシリアルキラーの男の話です。

1970年代ドイツ、ハンブルク。安アパートの屋根裏部屋に住むフリッツ・ホンカは、夜な夜な寂しい男と女が集るバー“ゴールデン・グローブ”で酒をあおっていた。彼がカウンターに座る女に声を掛けても、いつも顔をしかめられるだけ。
第二次世界大戦前に生まれ、敗戦後のドイツで幼少期を過ごし、貧しさと孤独の中で大人になった男が、70年から75年に渡って4人の娼婦を殺害しながら過ごす日常を淡々と描く。(公式サイト) 

公式サイトのイントロダクションにも「4人の娼婦を殺害しながら過ごす日常を淡々と描く」とあります。

そうなんです、本当に淡々なんです。このホンカがやっていることは、むちゃくちゃ暴力的で理解の度を超えた異常さなんですが、その行為におよぶ理由や意味はないのです。いや、わからないのです。映画がそれを語ろうとしていないからです。そうした人物がいたと見せているだけなんです。

同時代であればともかく、50年前の殺人鬼を淡々と描いてどうするの? と思います。何かそれに対する考察やら、批評やら、現代的視点がいるでしょう。

淡々としたものを見せられてそこに意味を見いだせるとするならば、それは見る側に、その淡々とした行為に反映させられる何かがあるからです。

という意味で、あるいはドイツでは意味があるのかもしれないとは思います。

もうひとつ別の見方をしますと、この映画のホンカの描き方は、その暴力性をアルコールに引きつけているきらいがあります。

映画は冒頭から中盤まで、ホンカが、行きつけのバー(Der Goldene Handschuh)で浴びるように酒を飲み、そのバーで誘った女を家に連れ込み、暴力的に犯し、(怒りにまかせてと見える)殺し、切断して隠すシーンが続きます。

そして、中ほどになりますと、なぜだったかは忘れてしまいましたが、ホンカは酒を絶ち、仕事を夜警に変えます。そして、その仕事場で出会った清掃係の女性と親しくなり、しきりと酒を勧められますが、しばらくは強固な意志で断り続けます。

その間、ホンカはかなり真っ当です。

それが酒を飲むことによって変貌します。突然その女性にやらせてくれと暴力的に迫り、それ以後再び酒浸りになり、殺人を犯すことになります。

酒を飲むことでホンカの中にある暴力的衝動が顕になるということになってしまいます。そうしますとサイコパスであるかどうかもあやふやになります。

殺人を犯し切断する行為に罪悪感や後悔やある種の恐怖を感じているシーンは一切ありません。酔いが覚め目覚めたときにも何も感じずに日常を過ごす人物に、殺人、遺体切断、放置といった暴力的衝動があるとして、それが酒を飲むことによってしか表に出ないことがあるとは私には考えられません。

私がアルコール依存症を知らないだけかもしれませんが…。

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