パリ、ただよう花/ロウ・イエ監督

面と向かって、お前がつきあっていたあばずれ中国女か、と言われ、顔色ひとつ変えないこととは…いきなり、パリの街角で、つきあっていた男にすがる中国人女性。それを得意の手持ちカメラで追いかけるわけですから、何とも微妙な感じで始まります。さらに、女は傷心の面持ちで街でさまよううち、たまたま出会った男にナンパされ、食事を共にした後、路地でレイプされ、それでも自分の部屋に連れて帰り、再び男と寝ます。

さすがに、何じゃ!この映画は!?と思います。が、

フランス語では何と言っていたのか、字幕では「あばずれ」という言葉が頻繁に使われていたその女ホア(コリーヌ・ヤン)は、北京から冒頭の男を追ってパリへ来たばかりらしく、中国人の教師(?)に間借りしているようで、その男とも寝るシーンがあります。

あれ? そうするとナンパされた男を連れて帰ったのは誰の家でしたっけ? 男がホテルへ連れて行ったんでしたっけ? 分からなくなりました。いずれにしても、ホアが自分の家に連れて帰ったと勘違いしてしまうくらいのホアの描き方だったと思ってください。その後の行為は自ら望んでいましたので、男目線の言葉でいえば、あばずれや誰とでも寝る女という言葉を使いたくなるくらいの設定になっています。後半、ホアは北京に戻るのですが、北京にも一緒に暮らしていた大学教授(?)がいるわけで、そうすると、その状態から冒頭のパリのシーンに繋がるわけですから、もう頭がごちゃごちゃです(笑)。

どうしても、ロウ・イエ監督は一体何をやろうとしているのだろう?と思い悩まざるをえません。

結局、ホアは、ナンパされた男マチュー(タハール・ラヒム)とつきあうことになり、セックスシーンも結構多いのですが、二人が愛し合っているのかどうか判然としません。もちろん、そのように描いているわけです。マチューは、単純な肉体労働を仕事としており、その交友関係も粗野な男たちであり、実際に、マチューが仕掛けたこととはいえ、ホアはマチューのダチに乱暴(描写はないがレイプ?)されます。ただ、これもさほど大きな出来事としては扱われていません。

何だかよく分からんなあと思いながら見ているうちに、徐々に分かってくることは、ホアが、男と寝ること、セックスにほとんど意味を見いだしていないのではないかということです。もちろん、快楽は感じているよう描かれてはいますが、愛情を感じるためのセックスなんて意識は毛頭なさそうで、さらに言えば、愛情にしてもセックスにしても、かなり空虚な感覚を抱いているのではないかと思えてくるのです。

そのあたり、ホアを演じたコリーヌ・ヤンの地ではないかと思いますが、何事にも媚びない、かと言って強く主張する感じでもなく、意識的に演技はしていないけれど、ある一定の存在感があり、何を考えているのか分からないけれど、心はしっかりある女性の存在が浮かび上がってきます。ですから、冒頭のシーンを微妙と書きましたが、男にすがるシーンはとても違和感があり、映画の内容の上でも、こういうホアなら、そもそも男にすがったりしないでしょうとは思います。

ラストも徹底しています。北京の大学教授に求婚されたホアは、それを受けますが、マチューがパリからいなくなったと知り、すぐさまフランスへ飛び、マチューの田舎を訪ねます。

そういえば、ここで不思議なシーンがありました。マチューがホアを両親に紹介すると、父親は「お前がつきあっていたあばずれ中国女か」とホアの前で言い放ちます。しかし、ホアは表情一つ変えません。本当に字幕のような内容だったのか、あるいは、あれこそが監督の意図だったのか、興味がありますね。

で、ホアはマチューとホテルに泊まり、セックスの途中で「求婚され、受けた」と話します。行為を続けることが出来なくなったマチューは、「それでもお前は俺と寝るのか」とやや強い口調でいいます。ホアは何も答えません。マチューは再びセックスを続けようとしますが、その後の描写はやや微妙で、うまくいっているのか、どうなっているのかよく分かりませんでした。

そして、ラストカットは、パリの街角にたたずむホア、確か何かを口にしたような…。

おまけですが、かなり意図的に入れているんだろうと思われるシーンがいくつかありました。
一つは、ホアがパリの大学で受ける講義の内容が、女性の権利に関するものであったこと。
二つ目は、ホアのインテリ層の友人たちとマチューが言い争いをする階層間対立のシーン。
三つ目は、北京に戻ったホアが通訳をするシーンで、中国の知識人に反体制に関することを語らせていたこと。
それぞれ短いシーンでしたので詳しくは記憶していませんが、いずれもどこか違和感を感じたところです。

ロウ・イエ監督の変化を感じる映画でした。