ディアーディアー/菊地健雄監督

"その人柄と堅実な仕事ぶりから多くの映画監督に愛された"という監督の持ち味がよく出た映画だとは思いますが…

ディア・ハンターならぬディア・ウォチャーとヒューマン・ウォチャーの内なる戦いのお話ですかね。

といった話は後回しにして、「リョウモウシカ」ですが、本当にいるのかなと思ってググってみましたら(笑)、ヒットしたのが「両毛線 伊勢崎駅付近の線路に鹿が侵入して立ち往生 これはシカたない」などというネタ話で、思わずくすっとしてしまいながら、いや、意外とこんなところから発想された映画かもと思った次第です。

山あいの長閑な町。この地にかつて「リョウモウシカ」と呼ばれる幻のシカが居たという。シカを発見した三兄妹は一躍時の人となるが、やがて目撃は虚偽とされ、三人には「うそつき」というレッテルが貼られる。
それから二十数年後、三人は別々の人生を歩んでいた。(略)
父危篤がきっかけで久々に再会する三人だが、顕子の元カレや義夫の同級生らが絡み、葬儀中に騒動が巻き起こる。再び岐路に立たされた三兄妹の行く先は……。 (公式サイト

というのも、ところどころ笑いを取ろうとしているようなところがあったからなんですが、ただ、それもかなり中途半端で、そもそもこの映画は一体何を問題にしようとしているのか、さっぱりつかめずに中盤辺りまで見進んでしまったという印象です。

どうやら設定は、

シカ事件で精神を病んでしまった次男の義夫(斉藤陽一郎)は病院暮らし。
末娘の顕子(中村ゆり)は駆け落ちの果てに酒浸りの生活。
長男の冨士夫(桐生コウジ)は家業の老朽化した工場と莫大な借金を背負っていた。

ということらしいのですが、どうでしょう、映画からはその過去は感じられなかったですね。

「精神を病む」ということが何を指しているのか分かりませんが、少なくともあの義夫は「病院暮らし」はしていないでしょうし、あの顕子は「酒浸りの生活」なんかではないでしょう。狂乱やアル中を演じる必要はありませんが、少なくとも心の波や起伏が感じられなければ、この設定は単なるお題目です。

たとえば、シカがらみで「精神を病」み町を出ることになったとするのなら、その町に入ることの拒絶反応、バスの中ではまるで車酔い程度の感じで吐気がするとは言っていましたが、その拒絶反応が繰り返しやってこなければうそですし、あの看板は直視できないでしょうし、あんなに懐かしそうに三人でリョウモウシカ発見の過去をたどることはできないでしょう。

顕子の駆け落ちにしてもリアリティがなさすぎますし、同級生の元カレと女友達とのゴタゴタにしてもあまりにも設定がステレオタイプ過ぎます。

この二人に、田舎を飛び出していきながら胸を張って帰ってこられる自分じゃないという屈折した感情が感じられなければ、そもそもこの話は成り立たないでしょう。二人ともお盆にちょっと帰省したという雰囲気です。

過去に囚われ「田舎」に囚われた人間が解き放たれる話じゃないんですか?

囚われていなければ開放される感動なんて生まれないでしょう。そういえば解き放たれるきっかけも、せいぜいが葬式でウサを晴らした程度の爆発でしたし、なぜあれで十数年(?)も抱えてきた淀みが消え去るのでしょうか?

ただ、冨士夫だけは、桐生コウジさんの深みのある雰囲気もあって、工場を明け渡すラスト以外はそれなりに説得力はありました。

で、結局、やはり、一体何が問題なんだろう?という疑問は解けず、それでも「その人柄と堅実な仕事ぶりから多くの映画監督に愛された」というその人柄はよく感じられる映画ではありました。

それにしても、映画の描く地方というのは、なぜこうもステレオタイプなんでしょう? もっといろんな人間がいますし、もっといろんな考え方がありますよ。